グスターボ・ドゥダメル (その3)

セルジュ・チェリビダッケ (その1)

AAFC例会資料

2012/02/26

担当 : 清水 俊一


グスターボ・ドゥダメル (その3)
(Gustavo Adolfo Dudamel Ramirez, 1981年1月26日 - )はベネズエラの指揮者。バルキシメト生まれ。

2008年ザルツブルク音楽祭
グスターボ・ドゥダメル/ライヴ・フロム・ザルツブルク  (ユニバーサル ミュージック:UCBG1278)

2008年8月23日 ザルツブルク大学講堂(公開リハーサル)マーラーの巨人
グスターボ・ドゥダメル(指揮) シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ

ドゥダメルの音楽づくり
このリハーサルから分かるように彼の音楽づくりは極めて丁寧で、細かいフレーズ、音色、演奏者の表情に至るまで注意が行き届いている。また、注目して欲しいのは彼が注意する時の表現やアナロジーで、その内容は成熟した大人と全く変わらず、とても20代半ばとは思えないものだ。

 

セルジュ・チェリビダッケ (その1)
(Sergiu Celibidache、1912年7月11日[1] - 1996年8月14日 パリ)は、ルーマニア生まれでドイツで活躍した指揮者・作曲家。

第2次大戦直後からベルリン・フィルを多く指揮し次期首席指揮者と謳われるが、フルトヴェングラーを深く尊敬していた彼は、フルトヴェングラーの非ナチ化裁判に協力するため奔走。2年後の1947年にフルトヴェングラーがベルリン・フィルに復帰した。チェリビダッケは時にはフルトヴェングラーの「下振り」を嬉々として行いながら多くの事を吸収したが、早くフルトヴェングラーに常任に復帰して欲しいベルリン・フィルにとって、チェリビダッケの存在価値は次第に変質していった。原因の一つは、チェリビダッケの求める演奏技術レベルがフルトヴェングラーの要求よりも厳しく、自分の要求に答えられないベテランの団員を入れ換えたがっていたことである(事実彼は自分が「フルトヴェングラーより耳がよい」ことを自認していた上、晩年のフルトヴェングラーは薬の副作用による難聴に苦しんでいた)。その他には、彼の派手なアクションや指揮台上での足踏み、唸り声や渋面がスタンドプレーと受け取られ始め、ベルリンの演奏会批評でも叩かれたこともあった。
こうした雰囲気のさなかに、チェリビダッケはベルリン・フィルとの「ドイツ・レクイエム」のリハーサルで大衝突を起こして決別し、38年後の1992年3月31日に最初で最後の復帰を果たすまでベルリン・フィルを指揮する事はなかった。

彼のリハーサルは、全ての音が自分好みになるまで徹底的にリハーサルするというものであった。普通一週間かけるところを三週間のプローベを要求すると言われ、オペラのような練習が限られるレパートリーは、この指揮者には経済的に全く不可能であった。

後年チェリビダッケはフルトヴェングラーから音楽の深遠な洞察のすべてを学んだと語っている。フルトヴェングラーにある曲のテンポ設定について質問したところ、フルトヴェングラーは「それは音がどう響くかによる」と答え、ホールなどのアコースティックを無視してメトロノームの数字だけを元に決められたようなテンポ設定は無意味だという事を悟ったという。

相当な毒舌家で知られていて、ミュンヘン市当局は金で他の指揮者への批判を黙らせたとされる(クラウス・ウムバッハ)。また、カール・ベームが晩年にミュンヘン・フィルに客演しようとした際、チェリビダッケの毒舌(チェリビダッケはベームを「芋袋」「ドンゴロス野郎」と呼んでいた)を耳にし、それを演奏契約解除の通告と見做して出演を取りやめた、という逸話も残っている。反面、ベームが病気のため指揮できなくなったロンドン交響楽団の演奏会をわずか1日のリハーサルで引き受けるなど、その本音はよく分からない。かつてチェリビダッケの毒舌(カラヤンを批判)が新聞の紙面を賑わせた際には、見かねたカルロス・クライバーがトスカニーニに成り済まして反論(天国でもカラヤンは人気者です)のテレックスを打った、ということもあった。
以上 WikiPedia等より転記・編集

 プロコフィエフ 交響曲第1番ニ長調作品25「古典交響曲」 (リハーサル&ゲネプロ)
リハーサル 17:40  7:25  5:46  7:39    ゲネプロ  5:02  5:36  2:05  4:47
演奏:ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:セルジュ・チェリビダッケ
1991年11月     レーザーディスク TELDEC WPLS-4041

以  上