【音源アラカルト】 「アレンジ虎の穴」
前田憲男&ウインドブレイカーズ

AAFC例会資料

2019/08/11

担当 : 後藤 榮一


 

昨年末、急逝したジャズアレンジャー・ピアニストの鬼才前田憲男が「アレンジ虎の穴」と題し名曲「枯葉」を題材に軽妙、縦横無尽にアレンジのエッセンスを語る。
後半は、実践編として「劇伴の現場で~」の苦心談を楽しめるかと? 演奏は、前田旧知の名プレイヤーを擁するウィンドブレイカーズです。

1.枯葉(J.MERCER,J.KOSMA)               約11分
2.講座編~音楽の歴史/枯葉を題材に          約21分
3.実践編~劇伴の現場で~                約10分
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※本CDについて(ライナーノーツより)
~このCDはジャズの歴史を語っている・・・ような部分と、プロの体験、アレンジの現場を語っているような部分から成っている。
「・・・のような」といったのは、CD構成上の単なるフォーマットに過ぎない。本来の目的は、ジャズをも含む大きな音楽の世界の面白さを気軽に楽しんでいただくことと、ウインドブレイカーズという全く私の音楽的独断で活動するグループの15年目の成果として、それぞれのベテラン中のベテランである各メンバーの素晴らしい音楽性に満ちた演奏を楽しんで戴くことにある。
  (平成7年1月 前田 憲男)

前田憲男略歴&トリビア

作曲・編曲・ジャズピアニスト(本名前田暢人 1934年12月6日-2018年11月25日)

昭和9年、大阪府出身。8歳からプロ活動を始め、ピアノ・指揮法とも独学で習得。
1955年上京。「沢田駿吾とダブルビーツ」を始めとして、1957年から名門「西条孝之介とウエストライナーズ」に在籍。当時からピアニストとしての評価は高かったが、徐々にアレンジャーとしての才能を発揮する。
1970年代以降多くのTV音楽番組にレギュラー出演し、2018年迄アレンジ、コンサート活動等幅広く活躍した。

※トリビア
1)両手で同時に違う曲のアレンジを書いた?
2)渡米した邦人ジャズメンが前田アレンジの曲を演奏をすると決まって「これは誰がアレンジしたのか?」と必ず聞かれる。
3)放送作家の奥山光伸 談: 「あるコンサートの構成を手掛けた折、僕が長い詩を書き音楽監督の前田さんが曲をつけてくれたんです。驚いたのは一字一句変えることなく曲を書いたんです。もう天才でしたね。」
4)早稲田グリークラブとの共演エピソード(別紙)

前田憲男&ウインドブレイカーズ「アレンジ虎の穴」
”これを聴かずして、ジャズを聴くなかれ !!

ジャズの歴史始まって以来、世界中で製作されたレコードの数は、数え切れぬ程の量に上ると思うが、ここにお送りする前田憲男編曲指揮によるウインドブレイカーズの演奏するような音楽は、今だかってレコーディングされたことはなかった、と思う。とにかく聴いて頂きたい。

ミュートしたトランペットのマイルス・デイヴィス張りの音色で始まるのは、誰でも知ってシャンソンの名曲の「枯葉」で、ウインドブレイカーズの冴えたサウンドが、これぞモダンジャズという感覚の中に我々を引きずり込んでいく。
ここまでは、いつものウインドブレイーズの素晴らしい演奏を聴いている時と違わないのだが、このあと、前田憲男先生が、軽妙な講釈で、デキシーランド・ジャズに始まるジャズの歴史に副って、「枯葉」という歌曲をいろいろなスタイルに料理して聴かせて下さる。
スウィング、グレン・ミラー、ビ・バップ、クール、マンボ、ウエスト・コースト、ファンキー、モード、ボサノバ、フリーと、或るサウンドは短く、或るサウンドはたっぷりと、それぞれのスタイルの演奏が展開されるのである。
実に面白い。アッという間に終わってしまう。そして最後の前田先生の結論が極めて重要だ。

それは、「ジャズは歴史上の違ったスタイルは、時が至っても滅びることなく、全てが現在も生きて演奏され続けている。」ということだ。
だからこそジャズを聴く楽しさ、喜びがあるのだ。
素人でもこの位の予備知識を持っていれば、面白味が倍加することを実感させてくれる。

そのあと、前田先生の講義は、本論が終わったあとのリラックスが嵩じて、劇伴をやらされ
た時の「演枯葉」の音どり苦心談があれこれと続く。実は、ここが一番おかしい。
前田先生もこれがやりたいばっかりに本論を喋ったのではなかろうか。
とにかく、このレコードはジャズ・レコード史上世界初のギネス・ブックに登録したくなる位貴重な、各人必携のアルバムである。
1995.4.2記  瀬川昌久

 

前田さんとの44年前の約束
堀俊輔 (S50卒、指揮者)

平成30年12月5日午前、私は青山葬儀所にいた。前田憲男さんに44年前の御礼と、その時の無礼をお詫びするためにーー。

昭和49年11月初旬、学指揮の私は絶対絶命の窮地に立たされていた。定演まで残り1カ月を切ったというのに、前田さんに委嘱した男声版「ウエストサイド・ストーリー」がまだ1ページも出来ていないのだ。イカン、これでは定演に穴があく。そうなれば私はおろか、責任学年である同期の末代までの恥となる。

この企画を発表した時、当時音楽監督であったコバケン(小林研一郎)先生をはじめ先輩諸氏、現役部員からも猛烈な反対を受けた。

それはそうだろう。純粋に合唱音楽を追求し愛している人から見れば、全くジャンルの違うジャズ・アレンジャーに委嘱し、共演はこともあろうに、大音響を出しまくるビッグバンド(早大ハイソサイエティー・オーケストラ)だなんて正気の沙汰ではない。

それでも私はこの企画を強引に進めた。前田さんは、ピアニスト、アレンジャーとして私の憧れであったし、ジャンルを超えて普遍的な音楽を実際のプレイで示してくれている人だった。
そんな彼の音楽に全身でぶつかりたかったのである。

前田憲男は昭和9年、大阪に生まれた。少年の頃は同郷の手塚治虫をめざして漫画を描いていたが、父親に手解きを受けただけのピアノがメキメキと上達する。高校卒業と同時に上京、さらに腕に磨きをかけた。

私が前田憲男の名を知った時は、既にスウィングジャーナル誌のグラビアを飾り、NHKをはじめ各局の音楽番組に彼の名前が出ないものはないぐらい売れっ子になっていた。
量産はしていたが、クオリティは高かった。
シャープス&フラッツやニューハードのような一流バンドのためのアレンジは華やかさがより増した。ピアノを弾けば重厚なブロックコードが響き、フレーズに富んだ鮮やかなアドリブは、私を完全に虜にした。
黛敏郎氏が「前田憲男は天才だ。のみならず、それまで低かった日本のアレンジャーの地位を引き上げた。」と絶賛。もう一人やはりアカデミズムとは無縁の天才、武満徹と並べて発言されていたが、まさしく慧眼である。

さて、定演は刻々と無情に迫って来る。理性を失い前田さんのマンションを襲ってしまった。
「どうしてもすぐ書いて下さい。でないと、ここに火をつけて僕も死にます。」さすがに前田さん驚いて「書かないとは言ってない。時間をくれと言ってるんだ!」しばらく押し問答が続いた後「3日後に日テレのロビーに取りにおいで」、「約束、約束ですよ!」

3日後、市ケ谷の日本テレビでスコアの束を受け取って、一目散に早稲田奉仕園へ走った。
苦しい息を吐きながら「みんなぁ、この中に定演が入っているぞ!」と叫んだ時の私の声は、人生で一番明るい声だったのではなかろうか。

定演後のある日、前田さんから手紙が届いた。「あのような演奏会を開くことがどんなに大変なことか、私は良く知っています。その熱意があれば何でも出来ます。これからもこの調子で頑張って下さい」。
その手紙のほかに、その頃雪村いづみのために書いた歌曲「約束」(藤田敏雄作詞)が同封してあった。

以上