趣味の電気遊びでまともな勉強もしないまま、何故か秋葉原に近い学校に潜り込みました。午前中の授業は4時間ありますが、3時間目と4時間目の確か10分ぐらいの休み時間に親が作った弁当(育ち盛りなので土方弁当、通称どかべん)を食べてしまい4時間目を眠たく過ごし授業の内容は頭の中に残らずして12時になると校門を脱出します。
歩いて約10分歩くと秋葉原の端っこにたどり着きます。お金が無くても雨が降らない限り週の6日中4日は通います。毎日ぐるっと回って、ジャンク見物です。この為にこの学校に入ったのかと言う状態です。土曜日は午前中で授業は完了しますので、帰り道に秋葉原のラジオデパートに向かいます。当時木造の建物で2階に海神無線のジャンク屋しか無く、すぐ隣に木で出来た机とL字のベンチがありここで弁当を食べて秋葉原をうろつき自宅に帰る生活でした。
当然のごとく、このような生活をすると授業内容は疎かになり、部品の知識はふえてしまい真空管の外側を見ただけで、何の番号の真空管か名前を当ててしまうことになります。
中間試験、期末試験なんて低空飛行のハイハイ状態と相成ります。職員室に呼び出されること何回も、呆れ顔の先生と対面です。教科書代わりのラジオ技術の雑誌を読みまくるという毎日です。
運のつきは突然人生に襲い掛かります。学校が小石川後楽園のそばに移転してしまったのです。前記のような様な環境変化で映画に有りました(甘い生活)は終わりを告げました。その代わりに飯田橋の職業安定所と警視庁遺失物預かり所のそばを通過し、盲学校の生徒さんたちと一緒に毎朝歩く羽目になりました。秋葉原の道は、遠くなりにけり恋人はいずこへです。
健全な学校生活化と断言できないのが多感な年頃、学校に無線倶楽部を作れば良いね、との事で同好会から正式の倶楽部に立ち上げ、コールサインを当時は郵政大臣から拝みいただき無事に開局、其の中で随分と遊びました。
若気の君は其の中で無線の免許を取らずオーデオのことをやっていました。6080のOTL―AMPを作ったのもこの頃です。音は出ましたが、測定器も無く、結果は追い込みも出来ず、最後は形無き状態で、ああ作ったな、の元に完了しました。
8回目に続く