今思うこと

AAFC 連続エッセイ
投稿日
2014/01/31
執筆担当
島 剛
 

 

 私が音楽を日常的に聴き始めたのは10代後半から粗、今に至る迄です。
 その切っ掛けは我が家に少しばかり贅沢な三点セットの大きなステレオが入った時からです。勿論、それ以前から機会あるごとに聞いていましたが自分の自由意思で聞くことが出来るように成ったのはこれが始まりです。

 ちょうど大学に入ったころで時間も自由、拘束も余り無しそれこそ読書、音楽と余り上達しなかった運動などそれまで思い描がいていた生活にドップリ浸かった時期です。

 私は中学生活の終わり頃から「人生どのように生きて行くべきか?」が心の一番大きい悩みで高校、大学、二〇代の中頃まで心の中に大きな重石に成っていました。今考えると「可笑しい、ドウシテだったのか?」尽きるともない疑問ですが当時は真剣で決して明るいとは言えない、いつも何かを考えているような風変わりな印象を与えた学生でした。
 当時の時流に有った物は殆ど興味を示さずその為二〇代前後の青春歌謡など印象に残っていません。ですから「ビートルズ」など名前は知っていましたが興味も沸かない、どうして人気があるのか全く分からず時代に埋没していました。
 そんな訳で音楽も何かそこに求める聞き方でした。勿論、キッカケは好きですが癒し、救済、啓示などを求める気持ちが強かった聞き方でした。

 音楽の種類はご多分に漏れず交響曲で始まり管弦楽曲、協奏曲、合唱曲(宗教曲)、諸々の室内楽(ピアノ、ヴァイオリンソナタ当)と興味が移り、三〇代頃より主に弦楽四重奏になりました。特にハイドンが好きになり「自分に於けるハイドン発見」とばかり心密かに感じていました。
 その為、カバンの中に小さなハイドンの全作品目録コピーを常に携帯し旅行、出張など機会あるごとにレコード・ショップに立ち寄り目録を確認して買い求めました。
 それでも相対的に人気のある作曲家とは違いジャンルが限られており限定的なものでした。
 ハイドンの音楽は今に至るまで好きで人間精神の「知、情、意」が最もバランスよく表現されており寛容の精神の極致と感じています。

 三〇代前半に成るといつしか心の問題も少しずつ溶解が始まり、又音楽も少しばかり聞き方も変わり作品の種類から内容に代わりました。同時に個々の作曲家に興味を抱くようになりました。 勿論、音楽を聴くのが中心でしたが三〇代、四〇代始めまでの印象はまさに「音楽を読んだ」が強く残る時期でした。

 42歳の正月休みにそれ迄少しは聞いていたマーラー交響曲全集を聴き終え、初めてマーラーが身近に成った覚えがあり細やかな充実感を得ました。
 正月休みが終わり成人の日さて次は何を聞くかと思いふとした事で棚を眺めたらベートーヴェンの主要作品が殆どある事に気づきました。「そうだ! ベートーヴェンを聞いて見よう!」ということに成りました。
 20代に読んだだけの岩波文庫「ベートーヴェンの手紙」を右に置き秋が終わりに近くなるまで約1年間聴き続け、そこには楽聖ベートーヴェンで無く人間ベートーヴェンを見る思いでした。親しみも感じ作品の印象も大分違い強面から優しさを感じる程でした。
 いつの時代でもそうでしょうがベートーヴェンは取分け時代と結び付きが強い作曲家と印象を受けました。

 それが影響したのでしょうか?作曲された時代が気になり一体自分の聞いている音楽な何なのか、西洋音楽史に興味が移り始めました。
 手元のCDでは対応できず週末、足繁く東京都文京区図書館に対象CDを借りに通った覚えがあります。これは長く続き途中の転勤を除いて50代中頃まで通いました。

 そうこうしている内にサラリーマン生活から開放される日も近づき、理解とは程遠い音楽史探訪を置き次の有り余る時間をどの様に過ごすべきか?どのように利用すべきかを考えるようになりました。
 私は不器用で物作り下手、音感などどうしようも無く楽器など全く不向き、絵、作陶などそれ以上に不向き。
 何か1つ寄り添うものが無い、さてどうした物かと?

 それならとこれまで細やかに続いた音楽鑑賞の延長上で「聞いてはいるが未だ聴いているとは言えない作曲家を時間の制約無しに一つ一つ聞いてみよう」を目標にしました。以前、2012年新春の目標で書かせて頂いた次第です。

 ベートーヴェンから始まり、ハイドン、今モーツアルトです。七年程経ちましたが大天才など理解出来るわけがありません。唯、不思議な事に過去の歴史上の人物なのに親しみを感じ始めました。
 勿論、隣に座って居るとは思えませんが声を掛けたい程の気持ちに成ります。そんな感傷で音楽が風景に感じることもありお近づきの効用かと思ったりします。
 又、過去に一瞥して疎遠に感じたものに親しみが湧いたり、理解したつもりが殆ど誤解だったり、結果として自分の理解力不足、殆ど分かっていないが分かった次第です。そんな訳で私の今、思うことは「分かって居ない!」が中心です。
 でも、考えように拠って、だから次の何かを求めるのが楽しみと言える気がします。ですから私にとって 「今、思う」はやっと音楽が「音の学び」でなく「音を楽しむ」に成った次第です。
 以上、私の今に至るまでを述べさせて頂きました。


多分に拙文で恥ずかしい限りです。お読み頂いた方には恐縮しております。次の書き手は音楽、映画、文学に幅広く慧眼がある後藤榮一さんにお願いしたいと思います。

以上          

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