音楽に興味と情熱を傾けられている皆さんにとって音楽は誰のものか?考えられたことはありますでしょうか。
バロック以前では純粋に楽しみのために聴く音楽は労働歌や民謡、宗教音楽などを除くとほとんど王侯貴族の占有物でした。
それらは食事や就寝のBGMであり、祝典を彩るファンファーレであったり、オペラを盛り上げる音楽として作り、聞かれていたのです。当初は作品管理も曖昧ですし、編曲も臨機に行われたりしていて曲自体が残っていないものも多いでしょう。ましてや演奏者の解釈などが問題になるのは後世の話です。
その後市民社会の発展でブルジョワの誕生と共に庶民がその視聴の主役となり、聞き方も宮廷サロンなどから一般の庶民が聞ける演奏会場と変わってきました。そのため一般の人々が聞くことを前提に音楽の作られ方自体も歴史の影響を受け変わってきています。
そして近年になって音楽の価値の源泉として作曲者を重要視するようになり、その解釈者として演奏者の地位も上がってきたので、今では作曲家・演奏家は音楽の利権所有者として力はかなりのものです
しかしまた別の面から電子技術の発展により音楽のバッケージ化が可能になり、音楽は更にリスナーの所有物となることにより、より身近なものになってきました。そこでは隠れた音響技術者やプロデューサーの占める位置も重要になっています。
この様に今では著作権などは常識となりましたが、われわれが当然のことと思っていることも時代の流れを見ればそれぞれの時代の解釈と価値観であり、いずれが絶対に正しいというものでもないように思います。音楽は作曲者のものでもなく、演奏者のものでもなく、ましてや当然リスナーの占有物でもないでしょう。
逆に、振り返って考えてみれば、それぞれの立場において音楽を解釈し、楽しめることが可能になってきた今の方が、はるかに音楽を豊かに享受することができるのではないでしょうか。
現代では作曲者は今までに無い次元で広く曲を聴いてもらうことができ、演奏者はその解釈と即興性を加味して実際の音として世の中に表現した事を残せてそれを広く評価され、リスナーは時間・場所を飛び越えてその音楽を自由に再構築することで楽しみを広げることができるようになった訳です。
私も楽しんでいるオーディオというのは良く考えてみるとなかなか興味深い趣味です。瞬時に消え去る音というものを再現する技術の中で、人の心の中の琴線にふれるものが作り出せるのは不思議な気がします。
音楽再生パッケージは良く缶詰だと揶揄されますが、所詮は聞く側の人間が常に同じ状態では無い以上、繰り返し聞くどんな場合でもその出会いは一期一会に相違ありません。
演奏がひとつの解釈であるとみなされる以前はどのような演奏をされるかは頓着されなかったように、再生もまだまだ一つの音楽解釈とはみなされていないのは残念に思います。
聞いてみれば分かるように実際に再生の世界も状況は千差万別で一つとして同じものはありえないのですから、それをどう表現するかは再生者の権限と責任に任されているともいえるでしょう。
今思うことはオーディオにおいて音楽を一人で聞くにせよ、大勢に聞いてもらうにせよ作曲者や演奏者と同様、自由であると共に、いつもいかに音楽のエッセンスを充分に取り出し、楽しんでいるだろうかということで、そんなことを感じながら、音楽を聞く日々を過ごしています。
次会は介川さんにお願いします。