今思うこと

-忘却の彼方へ、でも「未完成」だから「逢いたい」?-

AAFC 連続エッセイ
投稿日
2014/12/04
執筆担当
堀端 俊雄
 

 

 皆さん歌詞として「逢いたい」だけが72回、繰り返されるATOMIの歌を聴かれたことがありましょうか? 作詞は永六輔さんですが、「逢いたい」だけでは作詞とは言えないと云われて物議を醸しだしTBSでも放送禁止になったとか? 実はこの歌はCDシングル盤で1998年に発売されたのですが、とっくに廃盤になっています。「未完成」だったのかも??
でもネットではまだ買えますヨ!何故でしょうか? 走馬灯を回してみましょう。

 良く見た「夢」は「両手が翼になって大空を飛び回っている」情景です。狭い場所から飛び上がるんです。専門医の説明では日常生活で高揚を感じる時に見る人がいるそうですが、退職を機にこの夢は見たくても見なくなりました。

 戦時中の疎開時代は伊豆の狩野川の畔におり、雑音の中から聞こえたのは「ジー・ジー・ジー、関東地区、甲信地区警戒警報発令・・・・)なんて緊張したアナウンサーの声位でした。富士山を目標に飛んでくるB-29の編隊は伊豆半島上空で変針して東京へ向かうせいかよくみかけました。
 度重なる東京への空襲で焼夷弾の直撃を食らって焼け落ちた実家が昭和25年頃には再築され生まれ故郷の千駄ヶ谷に戻りました。参道は焼け野原でしたが馬道はまだありました。
 明治神宮から外苑へ続く中央線沿いの馬道はその後遊歩道となり、現在は駐車場でその上を首都高速が走っています。
千駄ヶ谷から省線電車で秋葉原へは十円で行けました。なけなしの小遣い銭数百円を持って、エナメル線、360pFの単バリ、抵抗やコンデンサー、なんかを買い漁った時代が懐かしいです。

 クラシック音楽との出会いは中学時代で、何方かが書かれていましたが、月光の曲、運命、未完成、新世界、アイネクライネ。勿論モノーラルで、U磁石のマグネチックスピーカーの再生音を少しでも良くしたくて小遣いのなかった僕は勉強机の一番下の大きな引き出しに厚手のべニア板で作ったバッフル坂にマウントしたのを付けた記憶があります。

 FM放送が始まると代々木にFM東海の実験局が誕生し、地元にいたお蔭で手作りのアンテナとチューナーでFM放送を聴いたりもしました。

 その頃、AMでは2局が協力してステレオ放送の実験放送が行われていました。ビートの発生を抑え込む爲に455KHzの中間周波数を微妙にずらしたチューナーが2台入っているものもありました。

 ジャズとの出会いは、FENや短波のVOA放送で聴いたビックス・バイダー・ベックやレッド・ニコルスのコルネットやペットの艶のある音色が引き金となりました。

 一部の方はもうご存じでしょうが50年前の1964年に何故かニューヨーク駐在を命ぜられ、東京オリンピックは米国のテレビで見ておりました。 以来米国には二回の駐在、その後はシドニー(豪州)、シンガポール(星国)と英語圏ばかり駐在を繰り返させられました。 サラリーマンを卒業してからは何故かJICAの海外シニアボランティアに応募させられ、インドシナ半島の真ん中にあるラオスなる東南アジアで唯一海のない内陸国に派遣され、国立大でコンピュータの指導をさせられました。

 十数年に及ぶ多彩な海外生活の中で聴覚異常に気付かされ、田村町(現、西新橋)の慈恵医大付属病院で精密検査の結果、騒音性の難聴と言われたのが40代に入る頃でした。
 現役時代は海外向け商品企画を担当しており、音響機器の企画もあったのですが、聴覚異常が判って音の関係する仕事から離れることになって行きました。

 50代半ばから海外グループを離れ、国内市場で始まった高精細映像機器の開発、普及を目的とする新たな事業を担当することになり、ミューズを応用したハイビジョンに挑戦して行きます。 当時の36インチハイビジョンモニターは一台100Kg位の重さがあり、設置作業はとても一人では出来ない重量物でした。病院関係で手術用のモニターとしてハイビジョンのデモを繰り返しましたが、医療関係者陣からは血液の色が本物の色ではないと何回言われたか判りません。日本の大手メーカーは皆さん、ブラウン管では無理かな〜なんて経験をさせられています。

 そんなこんなでオーディオから一時期遠ざかっていましたが、CDからパソコンの時代に入り、やがてハイレゾオーディオの時代へと世の中は進んで行きます。 
 高精細画像の世界も経験させられた結果としてBGM的に楽しむ術を学び現在がある爲、AAFCでも映像に関係するHPを担当させて頂き、出来るところまではやりましたが、ITの世界は「日進月歩」どころか、「時進日歩」の世界であり、HPもフェースブックページとの共演時代に入り、残念ながら加齢には勝てず、若きプロに引き継いております。

 人生いろいろ、いろんなことを経験させられましたが、今や「させていただいた」の気持で対処するようになりつつあるものの、「野次馬根性がある中が華」を忘れずに取り組んでいるつもりでこんな駄文を書く羽目になり、汗顔の至りが「今、思うこと」であります。
 自分でも理由が判らない、見えない、未知の何かをいつも追い求めており、本当の趣味?の世界はやはり「未完成」や「逢いたい」の謎にありそうなんであります。
 次の担当は今、当クラブの重鎮になられた、高橋さんにお願いしたいと思います。

2014年(平成26年)11月  堀端 俊雄

以上          

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