俳句という最も短型にして且つ純日本的な文学形態と西洋音楽。凡そ接点など全くなさそうな東西を代表する芸術様式ではあるが、いろいろ調べてみると 意外にこの両者 関連がなくもない。
先ず俳句をテーマにした西洋音楽といえば 筆者が真先に思い出すのは 20世紀を代表するフランスの作曲家オリヴェ・メシアン(1908 - 92)の作品「七つの俳諧」であろうか。1961年来日の際、各地を旅行したときの印象をもとに作曲されたが、「導入部」以下「奈良公園と石灯籠」「山中湖」「雅楽」「宮島と海中鳥居」「軽井沢の鳥たち」「コーダ」の七部構成で、楽器編成はピアノ、13の管楽器、木琴、マリンバ、打楽器と弦によって演奏される。但し作曲家自身の説明によれば ”俳諧”そのものとは直接の繋がりはなさそうで、敢て関係付ければ、俳諧のごとき小品から成る音によるスケッチ集「日本の印象記」といった意味合いのようである。
メシアンの弟子、ルノー・ギャヌには「一茶の俳句による6つのピアノ曲」、ハンス・ツエンダーに「フルートと弦楽器のための5つの俳句」があるが、何れも翻訳された俳句からのインスピレーションを音で表現した作品。更に 日本の作曲家、坪能克裕(つぼのうかつひろ)には 俳句独特のリズム感覚を生かして曲付けされた作品「一茶の俳句による5つの合唱曲」があるし、俳句ではないが啄木の著名な和歌には越谷辰之助が作曲した歌曲「初恋」がよく知られており、この曲は日本が生んだ夭折の名テナー、山路芳久により死の直前の1988年11月、札幌で吹き込まれた絶唱が遺されている。(音楽之友社CD OCD 0502)
変ったところでは作曲家兼俳人という二足の草鞋組で、中でもパリ音楽院出身の池内友次郎(1906-91)は俳人・高浜虚子の次男であり 自身も「ホトトギス」同人。また彼の芸大教授時代の愛弟子で、オペラ「沈黙」(原作は遠藤周作)の作者として著名な松村禎三(1929 - 2007)も俳句をよくし山口誓子の主催する「天狼」同人だった。池内に俳句関連の作曲はなかったと記憶するが、松村には「ヴィブラフォンのために -三橋鷹女の俳句によせて」(2002)という作品がある。日本の代表的打楽器奏者、吉原すみれの委嘱によるもので、鷹女の烈しい俳句同様、峻烈な響きの曲だった。
しかし 筆者にとって 簡潔、省略、間(ま)、感情の抑制、時空、静寂、日本的四季、宇宙、自然といったいわゆる俳諧的ムードを強く感じさせる曲は、先のメシアンの影響を強く受けた日本の代表的作曲家、武満徹(1930 - 96)の諸作品、中でも中期頃までの前衛期に属するものであろう。例えば、ニューヨーク・フィルからの委嘱作品で、彼の代表作でもある「ノヴェンバー・ステップス」(1967)。自身によれば、この作曲にあたって彼は漠然とした最初のイメージを幾つかの短い言葉にまとめながら最後に表題を決める。その過程で楽想が自然に喚起されたと述べているが、事ほど左様に武満作品にとって言葉は常に最重要な役割を担っていた。
こうしたプロセスは作句にも通ずるものではなかろうか。因みに彼の作品群から幾つか作品の表題のみを列記してみたい。
「~樹の曲」(1961),「環礁」(62),「地平線のドーリア」(64),「風の馬](66), 「グリーン](67),「四季」(70),「カシオペア」((71),,「旅」(73),「秋庭歌」(73),「波」(76),「海へ」(81),「雨の樹」(81),「11月の霧と菊の彼方から」(82),「雨の呪文」(82)「夢見る雨」(86),「径」(94),「精霊の庭」(94) ・・・。
生前の武満と俳句の接点については生憎不明だが、「翼(つばさ)」や「小さな空」などの優れた詩人でもあった武満が「私は一切の余分を削って確かな一つの音に至りたい」という境地、この”音”を”言葉”に言い換えれば 此れもまた作句の理想でもあろう。
ご存知の通り、19世紀までの西洋クラシック音楽には、俳句における五七五の定型とか、季語の挿入の如く、ソナタ形式などの形式とか調性が約束事のように存在していた。20世紀に入ると 様々なヴァリエーションが生まれて こうした形式や調性は崩れていったが、もし武満が句作をしていたら 恐らくは短詩にも似た自由律だったのではなかろうか。ともかくメシアンや松村のように武満にも何らかの形で(できれば自作句に基づいて)俳句に関わる彼独特の美しい叙情的な音楽作品を遺してもらいたかった。
前世期初め、晩年のグスタフ・マーラーが、ドイツ語に訳された漢詩に感動して名作「大地の歌」を作曲し、期せずして漢詩の素晴らしさを世界中に知らしめたように・・。
武満亡き後の21世紀においても、この漢詩にも匹敵するような俳句文化を有する我々日本人にとって その響きとかトーンとともに俳句をベースにした優れた音楽作品の出現によって世界の人たちを魅了すると同時に俳句そのものの奥深さを理解してもらえるようなことがあれば何と素晴らしいことか。
今や時候は冬、師走から迎年への時節であるが、最後に筆者が昔捻った極めて拙いながらも 自称”音楽俳句”なるものを幾つかご笑覧に供して本稿を締め括りたい。
五番街 ミサの漏れくる白聖夜 - クリスマスの夜、雪のニューヨークで(白聖夜=ホワイト・クリスマス)
暮れの街 第九に酔いて路地裏へ - 新宿オペラシティにて「第九」に感激して・・・
初春や ウインナ・ワルツで茶の間酒 - ウィーンに想いを馳せながら 日本酒で乾杯!
以上
PS 次回のご担当は倉田さんにお願いいたします。