今思うこと

―出会いの不思議―

AAFC 連続エッセイ
投稿日

2014/04/03

執筆担当
田邉 克彦
 

 

 3月14日に神戸市室内合奏団の東京公演(紀尾井ホール)に夫婦で行ってきた。合奏団の音楽監督である岡山潔氏から招待状を頂いたのである。
 彼のヴァイオリンを聴くのはほぼ1年ぶりで、曲はシューマンの協奏曲。心地よい演奏だった。岡山さんは、自分名前の弦楽四重奏団を率いているが、年2回のペースで開催してきた「ベートーベンの中期四重奏曲」のチクルスが昨年初夏に終わったからだ。
 彼の演奏会は殆ど聴いていて、中には聖徳大学(松戸市)の東日本災害復興支援チャリティー・コンサートまで含まれている。このときは陸前高田の流木で作ったヴァイオリンで「スプリング・ソナタ」などを弾いていた。

 彼と出会ったのは1981年。当時はボンのベートーベン・ハレ・オーケストラの第1コンサート・マスターだったから、もう35年近い付き合いになる。
 他にも10人近いクラシック音楽の演奏家たちと夫婦ぐるみで付き合っているが、皆さん80年代にボン、ケルン周辺で活動していた方々である。その頃のボンは、ドイツ再統一前とあって西ドイツの首都だったが、日本人は外交官、ジャーナリスト、音楽家ぐらいで、すぐ近くの商都デュッセルドルフが日本人で賑わっていたのに比べると、ずっと少なかった。それだけに皆仲良しで、帰国後は有志が語らって「ボン人会」なる会を立ち上げ、年1回は夫婦参加のグループ旅行をするなど団欒を楽しんでいる。

 仲間にはケルン在住のコントラバス奏者河原泰則さんもいて、彼が一時帰国の折には、演奏会やその後の私的打ち上げ会には必ず参加している。河原さんで思い出すのは、シューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」の演奏会。
 アンコールでは第4楽章を再演したが、ヴィオラが交代して、なんと皇太子殿下がそこに座られたのだ。終演後のパーティーでは、殿下と2人だけで会話する機会に恵まれたが、私の個人的な質問にも気さくに応じていただいた。
 共演のペーター・レーゼルさんや、ソニーの大賀典雄元会長、福井俊彦元日銀総裁などとも短いながら会話出来た。
 この非公開ミニ・コンサートの日時、場所、主催者などは伏せておく。この話を大学のOB誌に書こうとしたら、さるところから待ったが掛かったからだ(もう時効だろう)。

 出会いとは真に不思議なものだ。もし私がボンに転勤にならなければ、これら音楽家たちと知り合うこともなく、その後の人の輪の拡がりもなかったはずである。今なお続く音楽仲間との楽しい交際に感謝し、これからも大切にしていきたい。
それとともに「今思う」のは、別れのことである。私はこの2年で、従兄2人の葬式に立ち会った。これで親戚に昭和一桁が居なくなり、私(11年生まれ)たちがお迎えの最前列に立つことになった。学校のクラス仲間の訃報も聞こえるようになった。

 私は、日比谷公会堂のステージに一回だけ立ったことがある。中学生の合唱コンクールだったが、この時「タンホイザーの大行進曲」をソプラノのパートで歌っていたガールフレンドはもういない。私もこのところ耳が遠くなったし、PCの誤操作やキー・ボードの打ち間違いなどが急に増えてきた。

 ボン人会の音楽家たちは皆私より若いが、女性陣の演奏活動はめっきり減った。男性の方でも教職専業が増えた。
 使用楽器にもよるだろうが、技術、体力からいっていつまで現役を続けられるものだろうか。そして、その先にどんな別れが待っているのだろうか。心配になってきた。

 以上、なんだか自慢話のように聞こえるとしたら、申し訳ない。では、次ぎは藤井千恵子さんにバトン・タッチ致します。

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