ライブにはないレコード音楽の魅力は、一つの名曲に対して古今東西で録音された幾多の名演奏の聴き比べが容易に可能ということであろう。
新シリーズの目的は、ピアノなど鍵盤楽器に限定して、バロック期以降 各時期を代表する有名曲を選んで、夫々の多くの名録音を比較しながら、個々の演奏の違いのみではなく、ピアノ音楽がいかに発展してきたか、更にはその時代的特徴にもアプローチしてみようということです。
<第二回目の内容> 真のピアノ音楽はモーツァルトから始まった!
初回はバッハの「ゴールドベルグ変奏曲」を取り上げながらバロック期の鍵盤楽器を聴いたが、同時にこの期の代表的鍵盤楽器チェンバロによるカノンとかフーガを中心とする対位法による多声音楽は 最後の巨匠バッハに至って これ以上技術的に発展のしようがない程ピークに達した事実をご説明した。
片や18世紀初めイタリア人クリストフォリによってハンマーで弦を叩いて音を出す仕組みの新しい鍵盤楽器、今ではフォルテピアノと呼ばれる”ピアノ”が発明される。当初は遅々として普及しなかったこの楽器もやがて古典派時代に入って バッハの息子たち(とくにエマニュエル)やハイドンを経て、天才モーツアルトが現れるや、新様式・和声音楽の担い手として急速に発展する。真の意味でのピアノ音楽は、種々の試行錯誤の末、モーツァルトの出現をまって漸く動き出したといってもよい。
今回はモーツアルト中期を代表し かって”パリ・ソナタ”と呼ばれたピアノ曲の中でも特に名曲といわれる短調の代表格、8番イ短調K310と長調の代表格、10番ハ長調K330の2曲に対する古今の名演奏を取り上げてみたい。
A. ピアノ・ソナタ 第8番 イ短調 K. 310 (K. 300d)
ピアノ・ソナタ第14番ハ短調K.457とともに短調による独奏ピアノ曲の名曲中の名曲。1778年 パリ旅行中の作品だが、モーツアルトは此処で同行中の最愛の母の死を独りで見送った。全体を悲痛なムードが覆う。
第1楽章 アレグロ・マエストーソ 4分の4拍子 ソナタ形式
出だしの左手による和音連打、展開部での右手による声部の掛け合いに注目。全体的にもエモーショナルで悲しさというより何故かこみ上げる怒りみたいなものを感じさせる。
第2楽章 アンダンテ・カンタービレ・コン・エスプレッショーネ 4分の3拍子 ソナタ形式
後年のピアノ協奏曲の緩徐楽章に匹敵する圧倒的美しさ。
第3楽章 プレスト 4分の2拍子 ロンド形式 ここでは終始 寂寞とした孤独感が漂う。
8番では、今回比較用に下記(録音年代順)を用意した。
a. ディーヌ・リパッティ(1917-50) スタジオ録音とライブがあるが 何れも夭折した天才ピアニストによる伝説的名演。今回演奏するのは ライブ盤。(r1950)
b. ヴァルター・ギーゼキング(1895-1956) 8番といえば古来名演奏の代表例とされてきたもの。(r.1953)
c. フリードリッヒ・グルダ(1930-2000) グルダはウイーン生まれながら常に革新を追い求めた奇才。(r.1953)
d. リリー・クラウス(1903-86) クラウスにも3回の全集あり。女流らしく優美。然し凛とした佇まい。(r.1956)
e. ヴィルヘルム・ケンプ(1895-1991) 古武士的風格。ゆったりとした味のある演奏。(r.1962)
f. グレン・グールド(1932-82)(r.1969) 対位法を極めようとしたグールドにとって、モーツァルトとは?
g. エミール・ギレルス(1916-85) 独グラモフォンによる力強い名演があるが、これはザルツブルグでのライブ。(r.1971)
h. マリア・ジョアオ・ピリス(1944-) ピリスにも2つの全集があるが、これは若いときのもの。日本録音。(r.1974)
i. 内田光子(1948-) 現役ではバレンボイム、ピリスとともに今や世界の代表的モーツアルト弾きによる肌理の細かい演奏。(r.1985)
j. スヴァトスラフ・リヒテル(1915-1997) リヒテルらしく力づよく而もドラマに富んだ演奏。(r.1989)
k. マレイ・ペライア(1947-) タップリとした響きのどちらかといえば肉厚な演奏。(r.1990)
l. 小倉喜久子(?)バッハの評論家、磯山雅ご推薦のフォルテピアノによる快演。(r.2012)
B. ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K. 330 (K. 300h)
以前は 次の11番(トルコ行進曲)とともにパリ逗留期(1778)の作とされていたが、現在の研究では1780年夏、ザルツブルグでの作曲となった。いかにも長調らしい明るい即興風名作の一つ。とくに第2楽章アンダンテ・カンタービレが美しい。
第1楽章 アレグロ・モデラート 4分の2拍子 ソナタ形式
第2楽章 アンダンテ・カンタービレ 4分の3拍子 三部形式
第3楽章 アレグレット 4分の2拍子 ロンド・ソナタ形式
10番では、比較用に下記(録音順)を聴いてみたい。
a. クララ・ハスキル(1895-1960) モーツァルトの名手、ハスキルはこの曲を得意とし3種の録音が遺されたが、ここでは57年のライブ録音を取り上げた。それ以外のソナタでは2番が1種あるのみ。(r.1957)
b. グレン・グールド(1932-82) モーツァルト嫌いを自認していたグールドは本曲をなんと3種も遺した。(r.1958、59& 70)。前2つはライブ。今回は70年スタジオ録音を取り上げる。
c. ヴィルヘルム・バックハウス(1884-1969) 軽妙とは無縁だが 風格あるどっしりとしたモーツアルトが聴ける。これはこれで立派。(r.1961)
d. フリードリッヒ・グルダ(1930-2000) 8番と異なり ここでは後年のグルダを取り上げた。相変わらず自在且つスリリング。(r.1980)
e. ウラジミール・ホロヴィッツ(1904-89) 最晩年訪問した母国モスクワにおけるライブ録音(r.1986)
f. ファジル・サイ(1970-) トルコ生まれ。ジャズ、作曲でも活躍中。異色、奇才の名を恣に。(r.1997)
g. アンドレアス・シュタイアー(1955-) ドイツ出身。現代におけるチェンバロとフォルテピアノ演奏における文字通り第一人者。(r.2004)
h. シュ・シャオメイ(1949-) 文化大革命の経験者、バッハ・スペシャリストによる中々味のある初めてのモーツァルト。(r.2011)
i. 辻井伸行(1988-) ヴァン・クライバーン・コンクール優勝後のベルリン録音。(r.2012)
どちらかといえば ピアノ曲では ソロは初心者向の比較的平易な教習用であり、作曲者自身で弾くときはより難しい協奏曲といわれたが、何れにしても自身ピアノ演奏の超名手であったモーツァルトによる極上に美しいのピアノ曲の数々であり、その魅力を存分に味わってみたい。
以上