<第三回の内容>
ピアノ曲における古典派からロマン派への橋渡しをしたのはベートーヴェンだった!
前回申し上げた通り、18世紀 バッハの息子たちやハイドンにより主に交響曲や室内楽のジャンルで確立された古典派音楽は、ピアノ音楽においても自身優れたピアニストでもあった天才モーツァルトによって相次ぎ改良されるフォルテピアノの発展と呼応しながら、古典派音楽は隆盛期を迎えることになる。
この動きを継承し飛躍的に拡大・進化させたのが14歳年下のベートーヴェンだった。
古典派ピアノ音楽は彼の初期におけるピアノ作品、中でもその代表作ピアノ・ソナタ第8番『悲愴』(1797/8作曲)で早くもピークを迎えることになる。やがて18世紀に入るや名曲『月光』ソナタ(1801作曲)が誕生。現在ではこの曲はもはや古典派ではなく一気にロマン主義の嚆矢と看做す学者も多くなった。
古典派とロマン派。この二つの様式にはどんな違いがあるのだろうか。一般には理性的な古典派、感性的・主情的なのがロマン派と言われる。
従い古典派では、例えばソナタ形式、歌謡形式、メヌエット、ロンド形式など、どんな構成様式かが重視され、全体的な調和とか均衡、あるいは客観性とか普遍性が重んじられるのに対し、音色、和声、リズムなど、むしろ音楽の感覚的要素が強調され、更には個人の感性に主観的かつ直接訴えかけようとするのがロマン派だった。
即ちロマン派の作曲家が聴き手に要求するのは感覚や情緒に訴えながら自身の創造的体験を聴き手に追体験してもらうことである。
ロマン主義、とくに初期においては、こうした感覚的要素(音色、和声、リズム)とともに文学的要素を強調することにより聴き手のロマン的情緒に強く訴えようとすることも多かった。19世紀後半の後期ロマン派になるとコンサートホールの巨大化に合わせて楽曲や楽器編成規模の大型化など様相は少しずつ変貌するが・・・。
今回取り上げる演奏は『悲愴』ソナタでは、古典主義に則った傑作の例として、従来通り先ずグレン・グールドから始めて、バックハウス、ケンプ、ギレリスを、『月光』ソナタではグールド、ホロヴィッツ、グルダ、ケンプ、クン・ウー・パイク、ファジル・サイなどを聴き比べてみたい。
又時間があれば、1910年代日本最古の録音である沢田隆吉氏と気鋭の若手ルーカス・ユッセンによる最新の2010年代の「悲愴」か「月光」(何れも持参)もご試聴願いたく。
1. ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 作品13 『悲愴』(1797-98)
出版の際には「グランド・ソナタ・パテティーク(大ソナタ「悲愴」)と作曲者自ら特別に題名を付したほど自信作。しかも古典主義的作法に則った大作となった。
第1楽章 グラーヴェーアレグロ・デイ・モルト・エ・コン・ブリオ ハ短調
最初に暗くて長い序奏、グラーヴェ付きのソナタ形式。この暗い序奏がこの楽章の基調をなし全体が陰鬱な気分に覆われる。
『悲愴』という作曲家自身のネーミングも、このグラーヴェ動機によるものと思われる。チャイコフスキーの交響曲「悲愴」にも類似の動機が現れる。
主部ソナタ形式は2分の2拍子。
第2楽章 アダージョ・カンタービレ 変イ長調 4分の2拍子3部形式による緩徐楽章。
祈りの気分をもつ優雅な楽章。短いコーダがつく。
ナーゲルはベートーヴェンの凡ゆる緩徐楽章で最も優雅かつ叙情的と評している。
第3楽章 ロンド・アレグロ ハ短調 2分の2拍子 ロンド形式 2分の2拍子
2. ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調 作品27-2 『月光』(1801)
この『月光』という通俗的なニックネームは 作曲家自身によるものではなく、後日 詩人レルシュタープが、幻想的な第1楽章を形容して「まるでスイスのルツェルン湖に降り注ぐ月光に波揺らぐ小舟のよう」と評したことに始まる。
また戦前の日本の教科書に掲載された如く、ベートーヴェンが夜散策していると月の輝く窓辺でピアノを弾いている盲目の少女を目撃、彼女のために即興で演奏したのがこの第一楽章だったという逸話やら、更にはソナタ第12番の第4楽章「葬送行進曲」と同じく、この楽章はひん死の父のために神に祈る乙女の姿を描いたドイツの詩人ゾイメの詩に強い霊感を受けて作曲されたとする説など、この楽章を巡っては諸々のエピソードが残されている。
事ほど左様に一般的には第1楽章が有名だが むしろ第3楽章の堂々たる構成と烈しい高揚感が存在してこそ本作品が全体として傑作となった所以ではないかという評者が圧倒的に多い。
またこの曲を献呈されたのは、当時ベートーヴェンと恋仲だったといわれる伯爵令嬢ジュリエッタ・グイッチャルディだったが、彼女は程なく年齢や身分の違いなどの理由で他家へと嫁いでいく。
問題の第3楽章の烈しさは、こうした状況(怒りや告別)を反映したものではないかという説もある。因みにかの有名なハイリゲンシュタットの遺書が書かれたのは翌1802年のことであった。
要はこれら幾つもの逸話が存在すること自体、本曲は紛れもなくロマン派の作品ともいえそうだ。尚、原題は、一つ前の第13番ソナタとともに(幻想曲風ソナタ)となっている。
第1楽章 アダージョ・ソヌテート 嬰ハ短調 2分の2拍子 4小節の短い序奏をもつ幻想的な3部形式
第2楽章 アレグレット 変ニ長調 4分の3拍子 軽快な主部と不気味なトリオによる3部形式
第3楽章 プレスト・アジタート 嬰ハ短調 4分の4拍子 ソナタ形式
第2楽章から切れ目なしに続く。分散和音で始まる荒々しい第1主題と旋律的な第2主題による堂々たる構成のソナタ形式。最後にはかなり大きなコーダがつく。
3. 今回のピアニスト列伝 (括弧内 最初が録音時間、次は録音年)
A. ウイルヘルム・バックハウス(1884-1969) 『悲愴』(15:23)『月光』(15:20)何れも(r. 1958) 意外にあっさりと弾いているが力強く構成的。
B. ウイルヘルム・ケンプ(1895-1991) 『悲愴』(17:01)『月光』(13:42)(r。何れも1960) バックハウスと比べるとロマン的情緒もあり親しみ易く味のある演奏。
C. ヴラディミール・ホロヴィッツ(1904-89) 『月光』(15:45)(r. 1972) 粒立ちのよいタッチの背後に卓越した技巧を感じさせる。
D. エミール・ギレルス(1916-85) 『悲愴』(19:49) (r. 1980) 強靭で圧倒するスケール感あり。名演。
E. フリードリッヒ・グルダ(1930-2000) 『月光』(17:33)(r. 1957) 生涯革新を追い求めた奇才。強弱、テンポなどにもメリハリがあって現代的。
F. グレン・グールド(1932-82) 『悲愴』(14:26)(r. 1966) 『月光』(10:47)(r.1967) 何れもインテンポ、特に「月光」は淡々として且つ異常に速い。『悲愴』の終楽章は賛否両論。醒めた演奏。
G. クン・ウー・パイク(1946-) 15歳で渡米、ジュリアードでレヴィンに、ヨーロッパではケンプほかに師事。ベートーヴェン、ブラームス、フランスもの、現代ものを得意とする。現在パリを拠点に活躍するアジア屈指のピアニスト。『月光』(16:35)(r.2006) これは不気味なほど濃厚な味わい。
H. ファジール・サイ(1970-) トルコ生まれ。ジャズ、作曲でも活躍中。異色、奇才の名を恣に。『月光』(16:37)(r.2013) 敢て自在な「月光」とでもいおうか。
I. ルーカス・ユッセン(b. 1993-) オランダ生まれの新進ピアニスト。ドイツ・グラモフォンと専属契約した最年少演奏家。『悲愴』(19:22)『月光』(16:26)何れもデビュー盤。(r. 2010)
10代の演奏だが、意外にオーソドックス。アルチュール・ユッセン(b. 1996-)は弟で二人はデュオを組むことが多い。
J. 澤田 柳吉(1886-1936) 日本におけるピアニストのパイオニア。東京音楽学校を1906年卒後、日本最初のショパン弾きとして知られた。「悲愴」(r.1919)「月光」(r.1925)。流石に録音は古いが、時間があったら何れかを一部でも聴いてみたい。
以上