AAFC

『ピアノ音楽の楽しみ方』(5)

名曲の名演奏を聴き比べながら
ピアノ音楽の歴史を学ぼう!

2015年6月28日
分科会資料
担当 : 高橋 敏郎

 

<第五回> シューベルトのピアノ音楽におけるロマン性とその表現形式
ロマン派の開祖シューベルトは師ベートーヴェンが確立したソナタ形式によって
自身のロマンを表現しようとした!

 従来の西洋音楽史では古典主義を完成させたベートーヴェンに対してロマン派の開祖は歌曲王シューベルトという見方が一般的常識だったが、今ではむしろ古典派音楽の完成者ベートーヴェンの中にいち早くロマン派的要素を見い出しその芽を大きく発展させたのがシューベルトという見解が有力である。
 即ちこの二人の天才は敵対する関係では勿論なく底辺において深く結びついていたということであろう。

 ベートーヴェンを心から尊敬し 1827年、彼の葬式には終始号泣しながら行列の最後に加わっていたシューベルトもその師の後を追うかのように翌28年、僅か31歳の若さであの世へと旅立ってしまう。

 今回は死の年1828年に作曲された傑作、ピアノソナタ第21番変ロ長調と死の6年前、「未完成交響曲」ロ短調やミサ曲5番変イ長調など優れた作品を書いた充実の年、22年に作曲された名作「さすらい人幻想曲」ハ長調の二つのピアノ作品を取り上げながら、シューベルトがいかにベートーヴェンによって確立された様式、ピアノ・ソナタに固執しながら自身の理想とするロマン的内容を表現しようとしたかを考察したい。

 メンデルスゾーン、シューマン、ショパン、リストなどシューベルトに続く ロマン派の巨匠たちは比較的早くソナタ形式から離れ、様式の主流を小品集を含む、より自由な形式へとシフトしていったが・・・。

 フランツ・シューベルト(1797-1828) 。学校教師の子としてウィーンで生まれ、極く短期間エステルハージ伯の二人の令嬢の音楽教師としてハンガリーに滞在した以外は31歳で亡くなるまでウィーンから離れることはなかった。
 この短い生涯にも拘らず、「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」「白鳥の歌」という三大歌曲集に加えて600曲に及ぶ膨大な単独歌曲、ミサ曲、カンタータなどの合唱曲やオペラや劇音楽、9つの交響曲、管弦楽曲、ピアノ五重奏曲(ます)、弦楽五重奏曲、「死と乙女」「ロザムンデ」を含む15の弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲、ヴァイオリン・ソナタなど室内楽曲、21のピアノ・ソナタ,「さすらい人幻想曲」、即興曲や「楽興の時」、ドイツ舞曲集などの小品集を含むピアノ曲など膨大にして優れた作品を残した。
 ただしシューベルトの場合、ほとんどの作品が ”シューベルティアーデ”と呼ばれた親しい仲間内のサロンコンサートで演奏されたため、正式に出版されたり公開演奏された作品は少なく、しかも未完成のままの作品が多かった。
 ピアノ・ソナタを例にとれば、通し番号は一応21曲となっているが、実際に手がけた作品は少なくても24曲以上、その内10曲は未完といわれる。しかし上述のごとく、ベートーヴェンに対する尊敬の念から このピアノ・ソナタという様式には終始固執しながら師が完成させた理想的な器に自身独自のロマンを盛り込もうと懸命に努力したことは紛れもない事実であろう。

 今回取り上げた作品はピアノソナタという名称ではなく、しかも形式的には一楽章ながら、実際は4楽章のピアノ・ソナタ構成が基本になっている「さすらい人幻想曲」ハ長調と、ベートーヴェン以降最も優れたピアノソナタといわれるシューベルト最後のピアノ・ソナタ第21番変ロ長調という2つの実質ピアノ・ソナタである。
 他方、同じピアノ曲でも「即興曲」や「楽興の時」「ドイツ舞曲集」などに代表されるもう一つの様式、即ち小品集のラインもまた、メンデルスゾーンの「無言歌」以下シューマン、ショパン、リストなどロマン派の作曲家によって19世紀を通して連綿と継承されつつ見事に花開いていったのである。

A. 「さすらい人幻想曲」ハ長調 作品15 D.760

  シューベルトにとって壮年期といってもよい1822年の作曲。コンヴィクト(宮廷直属の寄宿制神学校)以来の親友、シュパウンに献呈するつもりだったようだが、最終的には作曲を依頼してきたピアニスト、フォン・リーベンベルグに献呈された。
 形式は1楽章だが、内容は4つの楽章からなる実質四楽章のピアノ・ソナタ。「さすらい人幻想曲」と呼ばれる理由は、第一楽章の第一主題と曲全体の基本主題に、自身作曲の歌曲「さすらい人」(作品4-1)伴奏部のモティーフが用いられていること、また第二楽章に歌曲「さすらい人」の旋律そのものが使われていることによる。
 尚、本作品はリストによりピアノと管弦楽用に編曲されたり、リストの唯一のピアノソナタの作曲に大きな影響を与えたといわれる。(一楽章形式とか最終楽章のフーガなど)

第一楽章 アレグロ・コン・フォーコ、マ・ノン・トロッポ、ハ長調、再現部のない変則的ソナタ形式

主和音の連打による第一主題から始まるが、この主題は 上記の通り 歌曲「さすらい人」伴奏部の動機に基づいている。このモティーフは 本楽章のみならず、曲全体に現れるため、循環形式におけるモティーフと看做してもよい。第二主題は叙情的だが、性格的には第一主題と似ている。この第二主題の転調の後、第一主題が現れ自由に展開されるが、再現部がないまま、フェルマータで間をおき切れ目なしに次の楽章へと移る。

第二楽章 アダージョ、嬰ハ短調 変奏曲形式

上述のごとく歌曲「さすらい人」の旋律を主題とした変素曲。最初2回繰り返された後6つの変奏が続く。最後にさざなみ風分散和音の上に主題がもう一度奏されてそのまま次の楽章へ。

第三楽章 プレスト、変イ長調 スケルツォ形式

スケルツォ主題は第一楽章の第一主題(基本主題)が基になっている。中間部は対照的に詩情豊かなウィンナ・ワルツ風。最後は和音が連打されて、フェルマータで間を取ったあと 直ちに終楽章へ。

第四楽章 アレグロ、ハ長調 フーガ形式

終始第一楽章の第一主題(基本主題)が自由に且つ幻想的に展開していく。最後は大きく盛り上がって終曲となる。

a. スヴャトスラフ・リヒテル - EMI (r.1963) : T20'42 (Complete)
b. マウリツィオ・ポリーニ - DGG (r.1973) T 21'33 (第1&2楽章)
c. ヴィルヘルム・ケンプ - DGG (r.1967) T6'14 (第2楽章のみ)

B. ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 遺作 D.960

  シューベルト最後の年1828年、体調は最悪で、しかも貧乏のどん底にあったが、まるで自身の死を予期したかように 交響曲第9番(グレート)、最後の歌曲集「白鳥の歌」、弦楽五重奏曲、そして最後の3つのピアノ・ソナタなど 綺羅星のごとき傑作を相次いで生み出した。ピアノソナタの中でもこの第21番変ロ長調は「ベートーヴェン以降に作られた最も優れ且つ美しいソナタで、シューベルトのピアノ曲の中で最高のもの」(ゲオルギー)と絶賛されている。

第一楽章 モルト・モデラート、変ロ長調、4/4拍子、ソナタ形式

第一主題は叙情的でおおらか。第二主題は対照的に軽やかな気分。展開部は第一主題が頻繁に転調、同主題のトリルが出現、再現部を経て第一主題に基づくコーダで閉じる。

第二楽章 アンダンテ・ソヌテヌート、嬰ハ短調、3/4拍子、三部形式

大変美しい歌謡楽章。第一部は愛らしい主題で、中間部は情感豊か。

第三楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ・コン・デリカテッツァ、変ロ長調、3/4拍子、スケルツォ形式

スケルツォといってもベートーヴェン的烈しさはなくデリケートで軽妙、気分はロマンティック。中間部は短くリズミカル。

第四楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ、変ロ長調、2/4拍子、自由なソナタ形式

ソナタ形式ではあるが、展開部がないので ロンド形式と考えてもよい。
最後はプレストのコーダが現れ、クライマックスに至り力強く終曲。

a. ヴラディミール・ホロヴィッツ - RCA (r.1953 at Carnegie H.) : 32'22 (Complete)
B. クララ・ハスキル - Phi (r.1952) T8'04 (第2楽章のみ)
C. ヴァレリー・アファナシエフ -若林工房(r.2014) T 12'05 (第2楽章のみ)

ピアニスト簡易列伝

クララ・ハスキル(1895-1960)
ルーマニアのブカレスト生まれ。1906年パリ音楽院入学、コルトーに師事。13年脊髄カリエスでピアノ演奏を禁じられるが、21年再開。パリを拠点に演奏活動を続けるが、ユダヤ人だったため、40年パリ陥落とともにマルセイユ、ジュネーヴへと落ち延びる。戦後漸く活動を再開するが、60年ブリュッセル駅での転倒。それがもとで亡くなった。モーツァルトのスペシャリスト。

ヴィルヘルム・ケンプ(1895-1991)
ドイツ、ユータポク生まれ。9歳でベルリン高等音楽院入学しピアノと作曲を学ぶ。1916年より演奏活動開始70年に及ぶ。ドイツ正統派の1人。常に比較されるバックハウスと比べるとロマン的情緒があり親しみ易いといわれた。

ルドルフ・ゼルキン(1903-91)
ボヘミア生まれ。両親はロシア系ユダヤ人。9歳からウィーンで学ぶ。1920年再デビュー。
名ヴァイオリニスト、アドルフ・ブッシュに認められ、彼の娘イエーネと結婚。33年アメリカ・デビュー、その後同国に帰化。以来ドイツ正統派ピアニストとして演奏活動を続けると共にカーティス音楽院やマールボロ音楽祭などで後進の育成に当った。

ヴラディミール・ホロヴィッツ(1903-89)
キエフ生まれ。10年、同音楽院卒。翌年デビュー忽ち名声を博す。指を伸ばして弾く独特の奏法、強靭なタッチと完璧な技法で20世紀最大のピアニストと云われた。

スヴャトスラフ・リヒテル(1915-97)
ウクライナ生まれ。初め父から手ほどきを受けた後は独学、その後モスクワ音楽院でG・ネイガウスに師事。ソ連を代表するピアニスト。1960年アメリカ・デビュー。70年万博の年に初来日、以降 度々来日した。レパートリーは広い。

マウリツィオ・ポリーニ(1942-)
ミラノ生まれ。59年ミラノ音楽院卒。60年、第6回ショパン・コンクール優勝。充電期間を経て68年からコンサートに復帰。各地で活躍中だが、現在最高のピアニストの1人。

ヴァレリー・アファナシエフ(1947- )
モスクワ生まれ。同音楽院でギレリスに学ぶ。68年ライプツィヒのバッハ国際コンクール、72年エリザベート国際コンクールで何れも優勝。モスクワで活躍したが、74年西ヨーロッパに亡命。以降、世界各地で演奏家、作曲家、作家として多彩な活動をしている。

以上