AAFC

『ピアノ音楽の楽しみ方』
“名曲の名演奏を聴き比べながらピアノ音楽の歴史を学ぼう“

第八回 超絶技巧派ピアニスト、リストによる
ピアノ音楽の醍醐味

2016年7月17日

分科会資料
担当:高橋 敏郎

 

19世紀ロマン派を代表する大作曲家フランツ・リストは、同時にヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして、他を全く寄せ付けない超絶技巧によって全ヨーロッパを席巻したカリスマ的存在でもあった。
とくに女性ファンに熱狂的な人気があったのは、その超絶技巧に加えて、イケメン的要素も多分に寄与していたのかもしれない。現在でいえば、超人気ロックバンドのスーパースターのような存在ではなかったろうか。

リストの生涯と作品

1811年、ハンガリー生まれ 神童の名をほしいままにした幼少期から長ずるに及んで、とくに30歳代後半までの前半生は自身の作・編曲になる超ポピュラーな曲を中心に技巧の限りを尽した演奏によって圧倒的人気を勝ち得た。
今や当たり前になっているが、抑々たった一人のピアニストが広いホールを埋め尽くした聴衆を前に演奏するリサイタルという演奏様式も、リストによって始めらたといわれる。

ピアノ音楽における同時代の宿命のライヴァル、ショパンとはほぼ同じ年で、20歳ごろ二人はパリで出会って以来、生涯通してお互いを認め合う友人でもあったが、性格はまったく正反対。

リストは派手好みで大胆奔放、生涯独身だったが、才色兼備を兼ねたマリー・ダグー伯爵夫人やヴィットゲンシュタイン公爵夫人との道ならぬ恋などで大いにヨーロッパ中の上流社会を賑わせた。
これに対してショパンは繊細孤高、実はジョルジュ・サンドに引き合わされたのはパリでダグー伯爵夫人のサロンであったが。
リストの”動”に対し,”静”の人というべきであろうが、当然その作風もリストが華麗かつ超絶テクニックで聴き手を圧倒するのに対し、ショパンには「ピアノの詩人」らしく、聴き手の情感にしみ込むような叙情的美しさに特徴があった。39歳と若くして亡くなったショパンは作品もほとんどがピアノ曲のみ。

他方、75歳まで生きたリストもまたピアニスト出身だけにピアノ曲が多い。
中心になるのは、練習曲、ピアノ組曲、その他のソロ・ピアノ曲であるが、2台のピアノのための作品、ピアノと管弦楽のための作品も作っている。
このピアノ分野でとくに注目されるのは、パラフレーズとよばれる他の作曲家による有名曲、例えば、べートーヴェンの9つの交響曲のピアノへの編曲であり、その数もまた膨大である。

こうしたピアノ曲以外にオペラ、管弦楽曲、室内楽曲、オルガン曲、歌曲、合唱曲など多彩で生涯に1400曲あまりの作品を残した。
中でも「レ・プレリュード」などの傑作を含む交響詩のジャンルは彼独自の創成になるものであり、晩年、とくにローマ滞在中には優れた宗教曲を残すなど作品のレパートリーは多岐にわたる。
また娘婿ワーグナーの歌劇や楽劇の演出や指揮も手がけるなど、その活動も実に広汎多彩であった。

そのリストの生涯は、ほぼ40歳を挟んで大雑把に前後二つに分けるのが一般的であろう。
即ち、前半ではピアノ演奏の名人・巨匠として全欧州で名声をほしいままにしたが、40歳を過ぎ、ワイマールやローマを生活の拠点にするようになると活動の中心を少しづつ演奏から作曲にシフト、しかも作品自体も、それまでのスポーツ的快感とかショーマンシップ的なポピュラーなものから一転して革新的な「ピアノ・ソナタ」とか多分に宗教的色彩を帯びた「巡礼の年」シリーズや「2つの伝説」など深い思索性が感じられる傑作が生み出されるようになる。
この傾向は交響詩など他のジャンルにおいても同様であった。

今回は、前半を「ラ・カンパネルラ」「愛の夢」など主に前期の作になるポピュラーな名曲群を、後半は「ピアノソナタ」を中心に、ホロヴィッツ、シフラ、アルゲリッチなど、リストのスペシャリストによる名演で聴き比べながら、リストのピアノ音楽の醍醐味をお楽しみ頂きたい。

作品概要

A. 「ラ・カンパネルラ」(パガニー二大練習曲 第3番)(A173)

リストのピアノ曲では最も人気のある作品の一つ。
6つあるパガニー二大練習曲は彼が尊敬するパガニーニ作品をピアノ用に編曲したものだが、3番目が「ラ・カンパネルラ」(鐘)と題されるこの作品。
本曲以外はパガニーニの「カプリッチオ」からそのまま編曲したものだが、本作品はパガニーニの協奏曲第二番終楽章の「鐘の主題」をベースに自由に編曲し調性も変えられている。1830年代以降、何回か改定され、最終版は1851年。

シフラ(EMI, r. 1956 - 4:10)、オグドン(EMI r. 1962 - 4:05)、ランラン(SONY r.2011 - 4:47) など

B. 「愛の夢」(3つの夜想曲 第3番)(A103)

これも リストの作品では最も知られた作品。40年代に作曲された自身の歌曲を3つの夜想曲として編曲したもの。この第3番が最も有名で、題名からは夢見る愛のイメージがあるが、人類愛ともいえるスケールの大きな理想愛を歌い上げたともいわれるが・・・。

女流のリスト弾きクリダ(DEC. r.1979 - 4:34)、ロマンティックなボレット(DEC.r.1972 - 4:54 )、若手のキーシン(MEL. r. 1989 - 4:22) の演奏で。

C. 「ハンガリア狂詩曲 第2番」 (A132)

祖国ハンガリーのロマとよばれるジプシー音楽を素材にしたシリーズもので、全19曲が作曲されたが、この2番、6番、「ラコッツィ行進曲」で有名な15番などがよく知られる。1840年ごろから作られていたが、最終版は51年で、53年に出版された。
「序奏ーラッサンーフリスカーコーダ」の構成はハンガリー舞曲「チャルダッシュ」ではお馴染みのもの。ラッサンは緩やかで、フリスカは急速で烈しい、何れも1/2拍子である。

自在なホロヴィッツ(RCA ,r1952L,- 9:03)及びジプシー出身の本格派シフラ(EMI, r. 1956 - 10:12) の名演で。

D. 「鬼火」(超絶技巧練習曲 第5番)(A172)

「超絶技巧練習曲」、この物々しい題名の練習曲は1826年から「すべての長短調による48の練習曲」として書き始められたが、最終的には12曲となった。
ほとんどが30年代に書かれたようだが、題名通り難曲中の難曲。師チェルニーに捧げられたが、中でも第5番「鬼火」は超絶的技巧を要する最難曲といわれた。
鬼火とは闇夜にゆらゆら揺れる人魂の意だが、右手のスピーディな音型が鬼火の飛び交う様を思わせるところからのネーミングの由、日本的な人魂とはちょっと異質。

リヒテル(DG, r.1958 - 3:38)、ベルマン(MEL. r. 1963 - 3:33)、オグドン(RCA r. 1972 - 3:09)の競演で。

E. 「ピアノ・ソナタ ニ短調」(A179)

ワイマール時代に造られた世界で初めての単一楽章のピアノソナタ。ワーグナーは「美しく偉大で気高く荘厳」と絶賛したが、著名な評論家ハンスリックは「支離滅裂な代物」とこき下ろした。
今ではリストの最高傑作の一つといわれ、平均演奏時間30分と長大であるが、腕に自信のあるほとんどのリスト弾きと称されるピアニストはこの超難曲に挑戦し録音している。

この作品の斬新な点は、一楽章に拘らず、その中に楽式としてのソナタ形式の特徴である提示部、展開部、再現部という要素と、通常3ないし4楽章からなる作品ジャンルとしてのピアノ・ソナタの特徴である第一楽章の急、第二楽章の緩、終楽章の急という二つの要素を微妙に融合していることであろう。
即ち、第一部 アレグロ・エネルジコ(1-330小節)が曲の提示部として機能しながら作品としては第一楽章、第二部 アンダンテ・ソステヌート(331-452小節)以下は展開部であると同時に、三部形式として緩徐楽章、第三部 アレグロ・エネルジコ(453-530小節)のフガートはスケルツォ、続いて再現部(531-615小節)は同時に終楽章として機能、更にコーダ(616-758小節)は終止的機能を果たしている。
この辺の細かな構成分析は人によって若干違いもあるが「二重機能形式」といわれる彼の創作に成る形式である。

長大な曲にも拘らず、第二部以下の曲の進展は第一部の最初に現れる4つの動機(最初の2つが第一主題を構成し、続いてグランディオーソとして現れる第3の動機が第2主題を構成)の変容と展開だけで成り立っているのもユニークである。

今回は、やや情感的ではあるが定評のある若きアルゲリッチの名録音(DG, r.1971- 25:45)とともに、ファジル・サイ(TEL. R. 2001 )(時間なき場合はサイの短縮盤 )を聴いてみたい。

ピアニスト人名録

ヴラディミール・ホロヴィッツ(1903-89)

旧ソ連キエフ生まれ。
10年キエフ音楽院卒。翌年デビューし忽ち名声を博す。
28年ニューヨーク・デビューで、大成功をおさめる。
40年以降アメリカに定住。指を伸ばして弾く独特の奏法。強靭なタッチと完璧な技法で20世紀が生んだ最高のピアニストの一人と云われた。

ホルヘ・ボレット(1914-90)

キューバ、ハバナ生まれ。
12歳でカーティス音楽院に入学し、サパートンに師事。リストやラフマニノフなどロマン派ピアノを得意とした。
とくにリスト弾きとして全集を録音。ピアノはベヒシュタインを使用した。
77年以降はゼルキンの後継として母校カーティス音楽院ピアノ科主任を務めるなど音楽教育に務めた。

スヴァトスラフ・リヒテル(1915-97)

ウクライナ、ジトミール生まれ。
手ほどきはドイツ人のピアニストであった父から受けるが、ほとんど独学でピアノを学ぶ。
1937年モスクワ音楽院でゲンリッヒ・ネイガウスに師事。
40年プロコフィエフのソナタ6番を初演してデビュー、45年全ソ連音楽コンクール優勝、幻の大ピアニストとよばれた。
1960年以降、初めて西側での演奏を許され、ホロヴィッツと並ぶ巨匠として世界的な大成功を納める。
1970年以降、訪日を繰り返した。

ジョルジュ・シフラ(1921-94) 

ハンガリー、ブダペスト生まれ。
1930年、F・リスト音楽院入学。エルネスト・フォン・ドホナーニに師事。天才ピアニストと言われた。
戦争中は従軍して捕虜になったり、戦後国外脱失を試みたが失敗し投獄。
54年再開後、フラツリスト賞を受賞、何回もの苦難を乗り越えて、56年漸く亡命を果たした。
フランス国籍を取得し、以降”最高のリスト弾き”として活躍した。

ラザール・ベルマン(1930-2006)

旧ソ連レニングラード生まれ。
ピアノは2歳から母の指導を受け3歳で公開演奏、9歳でモスクワ音楽院付き中央音楽学校、続いて音楽院で名教師ゴリデンヴェイゼルに師事、彼の師はリストの高弟パブストだったのでリストの直系でもあった。
56年、フランツ・リスト国際コンクールで第一位、70年西側にデビュー、以来とくにリスト弾きとして勇名をはせた。

ジョン・オグドン(1937-89) 

英マンチェスター生まれ。
7歳でマンチェスター音楽院、60年、F・ブゾーニ・コンクール優勝、61年、フランツ・リスト・コンクール優勝、62年、第2回チャイコフスキー・コンクールでは第1位をアシュケナージと分け合った。
圧倒的なパワーと強靭なテクニックで人気を博したが、残念ながら肺炎が原因で52歳で他界。リストは得意曲目であった。

フランス・クリダ(1938 - )

仏パリ生まれ。パリ音楽院にてラサール・レヴィに師事。
56年、フランツ・リスト国際コンクール入賞。68-72年にかけてリストの全ピアノ作品録音の偉業を達成。
爾来リスト弾きとして知られるが、リストに限らず、女流ながら優れたテクニックと豊かな感性でサティ初め、フランスものも得意とする。
演奏活動とともにエコール・ノルマル音楽院教授として後進の育成にも注力している。

マルタ・アルゲリッチ(1941-) 

アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれ。
5歳から名教師スカラムッツァに師事。外交官の父と共に55年以降、ヨーロッパに移住。グルダ、マガロフ、ミケランジェリらにも師事する。
ブゾーニやジュネーブ・コンクールで優勝後、1965年ショパン・コンクールで優勝。ポリーニとともに現在も最高のピアニストといわれる。
演奏は奔放かつ情熱的。当然の事かもしれぬが、若い時の演奏程、その傾向は強い。ただ最近は、ピアノソロが少なくなり、デュエットとか室内楽に注力することが多いのは残念なことだ。

マルク=アンドレ・アムラン(1961- ) 

カナダ、モントリオール生まれ。
V.ダンディ音楽院終了後、アメリカ・テンプル大で学士・修士号を取得。ラッセル・シャーマンなどに師事した。
1982年プレトリア国際コンクール、85年カーネギーホール国際音楽コンクールで優勝。グレン・グールドの後継者と賞賛される。
常に難曲・珍曲に挑戦し、その超絶的テクニックにより「ピアノの鉄人」と呼ばれている。

ファジル・サイ(1970- )

トルコ、アンカラ生まれ。
音楽とは無縁の家庭に育った。アンカラ音楽院でピアノと作曲を学ぶ。
17歳のとき国の奨学金でドイツに留学。ロベルト・シューマン音楽大でデビッド・レヴァインに師事。
25歳のときNYヤング・コンサート・アーティスト・オーディション優勝。アメリカ・デビューを果たし、最近では即興性を交えた刺激的な演奏で世界的に大好評を博している。

エフゲニー・キーシン(1971 - )

旧ソ連、モスクワ生まれ。
6歳でグネーシン音楽学校に入学。アンナ・カントールに師事。
10歳でモーツァルト「ピアノ協奏曲20番」でデビュー、12歳 モスクワ音楽院大ホールでキタエンコ指揮モスクワ・フィルと共にショパンのピアノ協奏曲を弾き、神童と呼ばれた。
88年カラヤンと共演、90年アメリカ・デビュー。以降、世界を舞台に活躍中。

ラン・ラン(1982 - )

中国、瀋陽生まれ。
3歳でピアノを始め、9歳で北京音楽院入学、13歳のとき第2回チャイコフスキー国際ユース・コンクール優勝。
その後コンクール歴はないが、米カーティス音楽院で G・グラフマンに師事、卒業と同時に2003年ドイツ・グラモフォンと専属契約し、スケールの大きなテクニックと豊かな表現力、そしてユニークなタレント性によって欧米を中心に演奏会や録音などで同年代のユンディ・リーなどとともに活躍中。

以上