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ショパンコンクールの優勝者たち (第1回)

2016年10月9日

分科会資料
担当:池田 充宏

  

第1回コンクール 1927年 開催地はワルシャワ(以降変わらず現在に至る)
  ◎ 優勝者 レフ・オポーリン(1907~1974 ソ連)

(1) 略歴
・帝政ロシアのモスクワで生まれ、音楽の英才教育で知られるグネーシン音楽学校に9歳から学び1921年卒業と同時にモスクワ音楽院に入学し、研鑽を積んだ。1924年デビュー。

・第1回ショパンコンクールで優勝、その後ソリスト、室内楽奏者、教師として活躍、母校の教授となり、ウラジミール・アシュケナージ、ペーター・レーゼルをはじめとし、多くの人材を育成した。

(2) プログラム
・ソナタNo.3 作品58全曲(1952年録音 24分20秒、メロディア)

・ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタNo.5「春」作品24第1楽章
        (V) D・オイストラツフ (1962年録音 10分13秒 フィリップス)

・夜想曲 No.20 遺作(1952年録音 3分40秒、メロディア)

第2回コンクール 1932年
    ◎ 優勝者 アレキサンドル・ウニンスキー(1910~1972 ソ連→フランス)

(1)略歴
・ウクライナのキエフに生まれ、キエフ音楽院在学中の1917年に革命が起こり、両親と供にフランスに亡命し、パリ音楽院で学んだ。
ショパンの孫弟子イシドール・フィリップ教授に師事。

・第2回ショパンコンクールで優勝(盲目のハンガリー人、イムレ・ウンガルと同点でコイントスにより決着)、その後ヨーロッパを中心に演奏活動を行う。
第二次世界大戦中にアメリカに移住、アメリカの市民権を得て、アメリカを中心に演奏活動を行った。
1955年にカナダのトロント音楽院教授に就任した。

(2)プログラム
・即興曲No.4 作品66(1959年録音 5分8秒、ムザ)

・船歌 作品60 (1952年録音8分21秒 フィリップス)

・ピアノ協奏曲No.1 作品11 第1、2楽章 (1960年録音 25分30秒 キング)
        パウル・クレッキー指揮 NHK交響楽団

第3回コンクール 1937年
    ◎ 優勝者 ヤコブ・ザーク(1913~1976 ソ連)

(1)略歴
・ウクライナのオデッサで生まれ、モスクワ音楽院に入学し、1935年卒業。
第3回ショパンコンクールで優勝した。

・その後、ソ連を中心に演奏活動を行い、1955年にモスクワ音楽院の教授に就任し、ヴァレリー・アファナシエフ、エリソ・ヴィルサラーゼ、ニコライ・ペトロフ等の俊英を育てた。

(2)プログラム
・ワルツNo.4 作品34-3(1948年録音 1分52秒、ムザ)

・夜想曲No.11 作品37-1(1948年録音 6分34秒、ムザ) 

・マズルカNo.22 作品33-1(1948年録音 1分25秒、ムザ) 

・マズルカNo.40 作品63-2(1948年録音 1分36秒、ムザ) 

・ M.ラヴェル ピアノ協奏曲ト短調第2楽章(1959年録音9分41秒、メロデイア)
      エフゲニー・スベトラーノフ指揮 ソ連国立交響楽団

フレデリック・フランソワ・ショパンの略歴

・ 1810年ポーランド ワルシャワ近郊でフランス出身の父とポーランド人の母との間に生まれた。幼時より音楽の才能を認められ、16才からワルシャワ音楽院で学ぶ。

・ 1830年当時のロシアの支配、圧制の下におかれ、革命暴動寸前のポーランドから出国し、ウィーンを経由してパリに至り、以後パリの上流社会のサロンを中心に活動し、画家のE・ドラクロワ、作曲家のF・リスト、H・ベルリオーズ、詩人のハインリッヒ・ハイネ、ピアニストのカルクブレンナー等々の多くの芸術家と交流を持った。

・ 1836年F・リストの紹介で知り合った女流作家のジョルジュ・サンドとの9年間に及ぶ愛人関係は有名である。

・ 生涯を通じて、ピアノ音楽の新境地を開拓し、その可能性を追求し、多くの名作を残し「ピアノの詩人」と称せられた。

・ 1849年、出国以来一度も故国に帰ることなく、若年時から苦しめられた宿痾(結核)により39才の生涯を閉じた。

 

ショパン国際ピアノコンクールについて

・ ショパンの祖国ポーランドは第一次世界大戦の終結にあたり、独立の回復を宣言した。

・ 独立の高揚の中で、この国が生んだ偉大な作曲家ショパンを顕彰し、文化的な統合の象徴とする動きが起こった。

・ ワルシャワのショパン音楽院の教授でピアニストでもあったイエジー・ジュラヴレフ(1887‐1980)は音楽を志す若者を元気づけ、当時恣意に流れる傾向があったショパンの作品の解釈、演奏を正し、彼の音楽を世界中に広めようと、1925年コンクールの創設を思い立った。

・ 以降2年間、行政、企業等を説いて回り、実現に向けての問題克服に努めた。独立直後の状況の中で運動は困難を極めた。「何度も自信を失い、幾度やめようと思ったことか」と
ジュラヴレフは後年語っている。

・ 彼と同志の努力が実り、1927年に第1回コンクールの開催が実現した。

・ 第二次世界大戦以前に3回、戦争終了後1949年に再開され(第4回)、第5回は1955年に開催され、以降5年の間隔で開かれている。

・ 2015年第17回コンクールが開催されたが、これまでポリーニ、アルゲリッチ、ツィマーマンなど優れたピアニストを世に送り出しており、現行のピアノコンクールの中で最高の位置付けがされている。

・ 1927年の第1回の参加者は26名(8ヶ国)であったが、2015年の第17回は1次応募者だけで445名(うち、日本人88名)、この中から書類、DVDによる審査で160名程度に絞り、さらに演奏審査で80名程度(実際は84名)が秋のコンクールに出場できた。
(第17回の場合、残ったピアニストはポーランド人15名、中国人15名、日本人12名、韓国人9名、他となっている)

以上