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20世紀の音楽 第3回

ショスタコーヴィッチ  その1

2017年7月9日

分科会資料
担当 :山本 一成

 

<第一部>  幻の映画鑑賞
ドキュメンタリー映画「ドミートリ・ショスタコーヴィッチ ヴィオラ・ソナタ」
監督:アレクサンドル・ソクローフ、セミョーン・アラノーヴィチ(1981年)

「スターリン時代をはじめとするソビエト圧政下で、時の権力との確執との迎合を繰り返し、其の真意が今もって謎に包まれている作曲家、ショスタコーヴィッチ。

 彼の実像に肉迫した本作品の内容は、ペレストロイカ発動直前と言う制作当時の複雑な政治状況下では、限りなくタブーに近いものだった。KGBは上映禁止を命じ、フィルム没収を画策するもソクローフらは危険を察知してフィルムを隠蔽。ゴルバチョフ政権への移行を経た87年にようやく日の目を見ることになる。

 ショスタコーヴィッチの遺作であり、その内政的でミステリアスな曲には、作曲家自身の遺言と告白が密かに埋め込まれていると言われている「ヴィオラ・ソナタ」。はたして、標題にその名を冠したソクローフたちの真意とはーー。」
(ライナーノートより)

 マニア必見映像!!
*ムラヴィンスキー指揮の交響曲第5番フィナーレシーン
*バーンスタイン&ニューヨークフィル モスクワ公演
  交響曲5番フィナーレ演奏シーン

<第2部> CDソフト鑑賞
  ・遺作「ヴィオラ・ソナタ」 ユーリー・バシュメット
  ・ 19歳の作品「交響曲第1番」
 
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ショスタコーヴィチ
ヴィオラ・ソナタ 作品147  ヴィオラ ユーリ・バシュメット
                 ピアノ Mikhail Muntian

「何故、ショスコーヴィチの遺作がヴィオラなのだろうか?」

ショスタコーヴィチは、生涯の最後に寡黙で瞑想的なヴィオラソナタを書いたことで、紛れもない「ソーロフ主義者」になったとも解されるのだ。ヴィオラとは、中間に踏みとどまり宙づり状態に賢明に耐えることを象徴する楽器なのだから。ヴィオラはオーケストラや小合奏に於いて、ヴァイオリンとチェロの中間音域を埋めることのために発達させられた。その由来からして中間的なのだ。しかも、その存在はある種の無理がともなっている。ヴァイオリンとチェロノの間の音を豊かに鳴らせればいいのだから、ヴァイオリンとチェロを足して2で割った大きさが最適になる。ところがそのサイズででは、人間の身の丈に合わない。ヴァイオリンのように肩に載せるには大きすぎ、チェロのように足で挟むには小さすぎる。そこで結局、最適サイズよりは小さい、肩に乗せられる楽器にされた。ヴィオラは自分の音域を美しく鳴らし、おのれの独自性を主張するには、大きさが足りていないのである。中略。 ヴィオラは、肉体性にも精神性にも徹しきれない。もともと音域が中間なうえに、その音域を充分に鳴らせるボディも持っていない。どちらにも行けない中途半端さ、間を漂う曖昧さがヴィオラの特色である。
その楽器を主役にし、ずっと考え事をしているような大作を、最後に書き上げ、ショスタコーヴィチは死んだ。ヴィオラの背負った歴史的・道具的性向を踏まえれば、どっちつかずの居心地の悪さに必死に耐えることに作曲家としての最後の心境を見いだしたとも、解釈出来る。

(中略)

彼はソ連という体制のもとに生き、そこで時に喜び、時に悲しみ、創作を続けたおのれの人生の全てを引き受けて、過去・歴史・現実を、声高に全肯定も全否定もせず、いささか足場の悪い肯定と否定の中間に必死に踏みとどまりながら、静かに見据える境地に達したのだ。

ライナーノート 片山杜秀より抜粋

ショスタコーヴィッチ年譜
1906 9月ペテルブルクで生まれる。父度量衡検査局技師、音楽院ピアノ科出身の母。
1915 母から9歳でピアノのレッスンを受ける。
1917 母の恩師ロザーノヴァにピアノを師事
1919 13歳最年少でペテルブルグ音楽院に入学。院長のグラズノフに可愛がられた。
1926 卒業制作交響曲第一番が初演。大成功。
1927 ショパン国際コンクールに出場。盲腸炎で不調。
      レフ・オボーリン優勝。
1932 実験物理学者ニーナと結婚。
1936 プラウダ批判。オペラ「ムツェンスク群のマクベス夫人」バレエ「明るい小川」で糾弾、自己批判迫られる。長女ガリーナ誕生。スターリン独裁時代。
1937 交響曲第5番発表。ソビエト革命20周年記念日
      「苦悩を突き抜けての歓喜」→「強制された歓喜」
      名誉回復を果たす。
1942 ドイツ軍によるレニングラード封鎖下、交響曲7番「レニングラード」発表。
圧倒的な大成功。市民の命がけの闘いを讃える
1945 ソ連の戦勝ムードの中、軽量級の交響曲9番が物議を醸す。 
1948 交響曲8番がジダノーフ批判の槍玉にあがり、演奏禁止になる。即座に自己批判を表明オラトリオ「森の歌」を発表、最悪の状態を脱する。仕事は激減→映画音楽を手がける。
1953 スターリン没。フルシチョフの雪解け時代到来。 
      交響曲10番初演。「スターリンとその時代について書いた。」暗鬱な曲。
1954 ニーナが急逝
1962 2番目の妻マルガリータとの結婚、離婚後3番目の妻イリーナとの結婚。献身的な妻。交響曲第13番「バービーヤール」初演。
1966 心臓発作を起こす。
1970 2度めの心臓発作。
1971 最後の交響曲15番作曲。
1975 8月9日。肺ガンのためモスクワの病院で死去。享年68歳

 特異な政治体制のもとを不屈の闘志で生き抜いた天才。

以上