<初期の作品の作風>
これまでのペルトの作品は、一般的に2つの年代に分けられる。初期の作品群は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチやセルゲイ・プロコフィエフ、ベラ・バルトークの影響下にある厳格な新古典主義の様式から、アルノルト・シェーンベルクの十二音技法やミュージック・セリエルにまで及ぶ。しかしそれはソヴィエト政府の憤怒を買うばかりでなく、独創性の発展において行き止まりである事を示していた。ペルトの伝記作家、ポール・ヒリアーは次のように書いている。
「意思表示する方法は数多あるけれど、その中で作曲という行為が最も無能で役に立たないという究極的絶望に彼は辿り着いたんだ。音楽に対する信頼も、音符一つ書く力さえも失ったようだったよ。」 (引用先:ウィキペディア)
<この時代の作品より>
1.チェロ協奏曲 「賛と否」 (1966) 第3楽章 3:09
Frans Helmerson (Cello) ネーメ・ヤルヴィ指揮
バーミンガム・シンフォニー・オーケストラ BIS CD-434
2.交響曲第3番 (1971) 第3楽章 8:17
ネーメー・ヤルヴィ指揮 バーミンガム・シンフォニー・オーケストラ
BIS CD-434
<後期作品の作風>
しかしながらペルトが深い難局を迎えていたことは明白であった。この袋小路を抜け出す術として、彼は「西洋音楽の根源への実質上の回帰」を見出し古楽に没頭した。単旋聖歌やグレゴリオ聖歌、ルネサンス期における多声音楽の出現などを研究すると同時に、宗教の探究や正教会への入信をも行った。この事実は恐らく、ペルトがその局面を単なる音楽的な問題と受け止めず、自然に対する何か霊的な物が関与していると考えた事を示しているのだろう。 引用:ウィキペディア
この時期以降に出現する音楽は、以前のそれとは根本的に相違するものであった。ペルトはそれをティンティナブリの様式と呼んでいる。(ティンティナブリは「鈴声」の意。)
「私の音楽は、あらゆる色を含む白色光に喩えることが出来よう。プリズムのみが、その光を分光し、多彩な色を現出させることが出来る。聞き手の精神が、このプリズムになれるかもしれない。」 (ペルトの言葉) 引用:ライナーノートより
<後期作品群より>
3.アリーナのために (1976) 10:47
アレクサンダー・モルター (ピアノ) ECM
4.フラトレス (1977) 11:24
「フラトレス」は「親族、兄弟、同士」といった意味を指す。「信仰を同じくする仲間=兄弟」
ギドン・クレメール(Vn)、キース・ジャレット(P)
ECM POCC-1511
5.カントゥス(ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌)(1977) 7:07
イ・フィアミンギ(ベルギーの室内オーケストラ)
RUDORF WERTHEN 指揮
6.タブラ・ラサ (1977) 26:26
「タブラ・ラサとは白紙・空白という意味」
ギドン・クレメール(Vn) タチアナ・グリンデンコ(Vn)
アルフレド・シュニトケ(プリペアード・ピアノ)
リトアニア室内管弦楽団 サウルス・ゾンデキス 指揮
7.鏡の中の鏡 (1978) 9:29
ヴィクトリア・ムローヴァ(Vn) リーアム・ダナキー (ピアノ)
パーヴォ・ヤルヴィ指揮エストニア国立交響楽団 ONYX PONYX4201
8.連祷 (1994) 22:45
ディヴィッド・ジェイムス(カウンターテナー)
ロジャーズカーヴィ=クランプ(テノール)ジョン・ポッター(テノール)
ゴードン・ジョーンズ(バス)
タリン室内管弦楽団 エストニアルハーモニー室内合唱団
トヌ・カユステ指揮 ECM POCC-103
(年譜)
ペルトの生まれた頃、エストニアは独立共和国として黎明期であったにも関わらず、独ソ不可侵条約のため、1940年にはソヴィエト連邦の勢力下に置かれてしまう。その後、エストニアはナチス・ドイツの支配下になった一時期を除けば、54年間ソヴィエト連邦の一部のままにあった。
1957年にタリン音楽院に進んで作曲を勉強するだけでなく、1968年までエストニア放送のレコーディングエンジニアの仕事をした。1961年オラトリオ「世界の歩み」により、モスクワで開催された全ソ連青少年作曲コンクールで優勝を果たした。
1979年に家族とともに国を出て、オーストリアのウィーンに移住、市民権を獲得。1982年にはベルリンを拠点に活躍した
『ティンチナブル形式』
非装飾音符や三和音がしばしば用いられ、それらは西洋音楽の根柢を成すものである。この様式は、ティンティナブリという名前の所以である「鈴の鳴るさま」を髣髴させる。ティンティナブリはやはり単純なリズムを持ち、テンポは常に一定を保つ。古楽の影響は明瞭である。同時期の作品におけるもう一つの特徴として、宗教的なテクストが作品中でしばしば用いられるものの、その殆どの場合において、彼の母国語であるエストニア語の代わりにラテン語又はスラヴ系の正教会の奉神礼に使われる教会スラヴ語が用いられている事が挙げられる。
ペルトはこのティンティナブリ以降の諸作品によって最もよく知られ、絶大な人気を博している。
数々の賞を獲っており、日本においては2014年に高松宮殿下記念世界文化賞受賞のために来日した。 (引用:ウィキペディア)
<アルヴォ・ペルトの世界> 黒田 恭一
甘くはなくて、苦みのある、
明るくはなり切れなくて、うつむきがちな、
走る前にまずためらいが先に立ってしまう
ペルトの音楽にあるのは、
いわゆる「現代音楽」と呼ばれる音楽の多くが忘れてしまった、
音楽への熱い思いである。
アルヴォ・ペルトの音楽は聴き手を感動(!)させる。
時代に呼応してというべきか、音楽の乾燥の度合いを高めている。
すねたような態度で音楽を小手先で器用に扱う秀才作曲家によって差し出されて
音楽もどきにはあるはずもない。真面目になりすぎたためのアルヴォ・ペルトの野
暮を嗤いたい奴は嗤え。
このディスクで聴ける音楽は、音楽もまた人が人に伝えるべきなにものかを背負
ったメッセージのひつであるということを、聴き手に思い出させずにおかない。
作曲家が作曲家でいることの難しい時代であるためと考えていいだろう、「現代音
楽」の作曲家の多くは、呼びかけることを忘れて自己満足の洞穴にとじこもる。
洞穴を覗き込むのは、よほどのものずきなスノップだけである。
アルヴォ・ペルトは洞穴の住人ではない。ペルトは、みんなが手を地面につけて歩
いている時代に、果敢にも手を大地から離して立ち上がった直立猿人である。生
きることの耐え難い寂しさが彼を突き動かしたのか。ともかく彼は、立ち上がって、
彼の音楽に耳を澄ますかもしれない人に、彼の音楽で呼びかけた。ここで聴ける
音楽はアルヴォ・ペルトという精神の勇者の呼びかけである。
(CDライナーノートより)
以上
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