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ハイドンの楽しみ 第1回

2019年5月5日

分科会資料
担当:塚田 繁

 

本日の曲目

交響曲第31番「ホルン信号」第1楽章
交響曲第98番
ピアノソナタホ短調 Hob 34
アンダンテ主題と変奏曲へ短調
トランペット協奏曲
弦楽四重奏曲作品33-2「冗談」
歌劇「騎士オルランド」より

 

ハイドンの魅力

「ハイドンこそ、あいまいさのない音楽を書いた人、情緒によりかかって、明晰さの欠けた響きの中でものをいうのと逆に、知的で潔癖で、論理に隙のない作品を書いた人、それでいて、ちっとも理屈っぽくならず、みずみずしい生気にあふれた曲を書いた人である。」(吉田秀和)

ハイドンの生涯  17321809  

ハイドンは、オーストリアの片田舎の、車大工の子。父親も大変歌の好きな人だったが、ハイドンも幼い時から美声と際立った楽才に恵まれていたので、1740年ウィーンに来て教会の合唱団に入り、そこで演奏をし音楽教育を受けた。
そのうち声変わりとともに地位を失い、苦しい生活をしたが、しだいに認められ、貴族のお抱えになった。
この頃の音楽家たちは、オペラでも作るほかは、貴族か教会に仕える以外に生活の道はなかった。ハイドンは、その後ハンガリーのエステルハージ公という大貴族に仕えて、生涯の大半を送り、主公の死とともにウィーンで自由な恩給生活に入ったのが、58歳の時である。
60歳を過ぎてロンドンに2度招かれて12曲の交響曲を書き、その後ナポレオン軍占領下のウィーンで77歳の長い生涯を終えた。 (年表参照)

ハイドンが作った曲

交響曲:107曲、協奏曲:オルガン、チェンバロ、ピアノ11曲、その他約9曲、管弦合奏:42曲、舞曲:多数(113?)、弦楽四重奏曲:67曲、その他の室内楽曲:30曲、バリトンの曲:約133曲(うち三重奏曲120)、チェンバロ四重奏曲:12曲、クラヴィーア三重奏曲:38曲、クラヴィーアソナタ:54曲、クラヴィーア小曲:7曲、リラの曲:13曲、音楽時計の曲:26曲、オラトリオ:3曲、ミサ:13曲、その他教会音楽:36曲、オペラ:13曲、その他舞台音楽:4曲、アリア・歌曲:96曲、民謡編曲:346曲、無伴奏カノン:47曲         (大宮真琴「ハイドン」 作品表による)


1.交響曲第31番ニ長調 「ホルン信号」 Hob I:31 第一楽章 (1765年)

1765年頃の作曲、副楽長時代の作品。ホルンの他フルート、オーボエのソロの部分が多く、合奏協奏曲ないしは協奏交響曲に近い。この当時エステルハージの楽団にはホルンが4名いた。
第1楽章 アレグロ 軍隊用トランペット信号で開始、すぐに郵便ホルン信号による第一主題。
(演奏)クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(1989)  7:11

2.弦楽四重奏曲変ホ長調 作品33第2番 「冗談」 Hob III:38 (1781年)

作品33は 「ロシア四重奏曲」と呼ばれる6曲の四重奏曲セット。1782年出版の際にロシア大公に献呈された旨の記載あり。有力貴族へのハイドン自身の予約勧誘の手紙が残されている。
《音楽の偉大な後援者にして愛好家たる殿下に、おそれながら、2つのヴァイオリンとヴィオラ、チェロのための全く新しい私の四重奏曲を提供いたしたいと存じます。・・・・ 十年このかた、私は四重奏曲を一曲も作曲しませんでしたので、これらの曲は、全く新しい特別の方法で作曲されております。国外にお住まいの高貴な予約者がたには、私が国内で出版しますよりも前に楽譜をお受け取りいただけるようにいたします。なにとぞ御引立てを賜って、予約お申込みをくださいますようにお願いいたします》

「全く新しい方法」=主題の発展・展開⇒ソナタ形式の完成、モーツァルトに多大の影響。
各曲ともメヌエットの代わりに「スケルツォ」とし、1番から4番までは第2楽章に置かれている。
第2番は全体として軽妙な印象を与え、第4楽章の変わった終わり方から「冗談」と呼ばれる。

第1楽章 アレグロ・モデラート カンタービレ  気持ち良いメロディーで始まる 4:14
第2楽章 スケルツォ アレグロ     3:50
第3楽章 ラルゴ・ソステヌート 2主題の変奏曲、ヴィオラ・チェロからスタート  6:14
第4楽章 プレスト  ユーモアのある終わり方     2:51
(演奏) ウェラー弦楽四重奏団  (1965年)

3.クラヴィーアソナタ ホ短調 Hob XVI:34 (1780年代はじめ)

成立に事情は定かではないが、クラヴィーアソナタ創作上の工夫に富んだ深い曲。
第1楽章 プレスト  ソナタ形式 8分の6拍子                     5:55
第2楽章 アダージョ  装飾豊かな緩徐楽章                     5:06
第3楽章 モルト・ヴィヴァーチェ   ロンド形式         3:33
(演奏) アルフレッド・ブレンデル (ピアノ)   (1984年)

4.トランペット協奏曲変ホ長調 Hob VIIe:1 (1796年)

ウィーンの宮廷トランペット奏者アントン・ヴァイディンガーのために作曲。
ヴァイデンガーは有鍵トランペットを考案、すべての半音階が演奏できるようになった。
ハイドンが2回目のイギリス旅行からかえった後で、最後の協奏曲作品。

第1楽章 アレグロ   ソナタ形式 再現部の第2主題のあとにカデンツァ 6:17
第2楽章 アンダンテ     3:14
第3楽章 アレグロ        4:26
(演奏) ウィントン・マルサリス(トランペット) レイモンド・レッパード指揮ナショナル・フィルハーモニック管弦楽団 (第1楽章のカデンツァはマルサリス作)   (1982年)

5.歌劇「騎士オルランド」 HobXXIII: 11 (1782年) から

パスキアーレのアリア 「俺は旅した、フランスを、スペインを」      3:23
アンジェリカのアリア 「行かないで、私の美しきともし火」             5:20
エステルハージで初演、再演が繰り返された「英雄喜劇」。
(演奏) マルクス・シェーファー(テノール)、パトリシア・プティボン(ソプラノ)
ニコラウス・アーノンクール指揮 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス  (2005年)

6.交響曲第98番変ロ長調 Hob I:98  (1792年)

第1期ザロモン交響曲6曲の一つ。いずれも1791-1792年のロンドン滞在中に作曲された。

第1楽章 アダージョーアレグロ 序奏は第一主題を短調化    6:59
第2楽章 アダージョ 聴衆に知られた(?)旋律。モーツァルトへのオマージュかも。5:22
第3楽章 メヌエット アレグロ          5:39
第4楽章 プレストーモデラート 終わりそうで終わらない。最後にハイドンからのサービス付き。  8:36
(演奏) ショルティ指揮 ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団  (1991年)

7.アンダンテ主題と変奏曲 へ短調 Hob XVII:6 (1793年)

1793年1月に敬愛してやまぬマリアンネ・フォン・ゲンツィンガーが死去、この変奏曲はゲンツィンガー夫人の死を悼んで作曲されたものと思われる。
へ短調とヘ長調の二つの主題からなる。
(演奏) ウィルヘルム・バックハウス (ピアノ)  (1958年)

付録 レオポルト・モーツァルト「おもちゃの交響曲」

1790年に「ハイドンの作品」として演奏された記録あり。ハイドンにしては単純牧歌的であり、当初から疑問視されており、弟のミハエル・ハイドン作との説もあった。
20世紀中頃モーツァルトの父レオポルトの作品資料から同じ曲が発見され、「レオポルト・モーツァルト作曲」となった。
さらに1992年、オーストリアの修道院から「おもちゃの交響曲」の楽譜が見つかり、そこにはチロルの無名作曲家エドムント・アンゲラー作とあり、今日では「アンゲラー作曲」が有力。

第1楽章 アレグロ 4:25 第2楽章 メヌエット 5:29 第3楽章 フィナーレ(プレスト) 1:11
(演奏) ルイ・オーリアコンブ指揮 トゥ―ルーズ室内管弦楽団 (1974年)

*ご参考

ソナタ形式

交響曲やピアノ・ソナタの第1楽章などに使われる楽曲の形式。
(序奏)→提示部〔第一主題→第二主題〕→展開部→再現部〔第一主題第二主題〕→終結部

ニコラウス(1世)・エステルハージ侯爵(1714-1790)

アイゼンシュタットに居城をもつハンガリーの大貴族。1762年、兄(パウル・アントン)の死去に伴い爵位を継ぐ。1766年にハイドンを楽長に昇格させ、30年にわたる親密な主従関係を結んだ。

同時代の音楽家

グルック 1714-1784 オーストリア出身のオペラ作曲家
ミヒャエル・ハイドン 1737-1806 ヨーゼフの弟。ザルツブルクの大司教宮廷勤務。
ボッケリーニ 1743-1805 イタリア出身、スペインで活躍。ハイドンを尊敬。
サリエリ 1750-1825 イタリア出身 1774年ウィーンの宮廷作曲家、1788年宮廷楽長
モーツァルト 1756-1791 1780年代はじめからハイドンと会うようになっていた。父のレオポルト・モーツァルトの1785年の手紙。 《ハイドン氏は私にこう言ってくれました。「私は正直な人間として神に誓って申しあげますが、私の直接間接に知っているかぎり、あなたの息子さんは最も偉大な作曲家です。美についてのよい趣味をお持ちですし、そのうえ優れた作曲の技術を身につけておられます」》
モーツァルトも同じころ次のように語ったと言われている。《戯れたり、興奮させたり、笑いを引きおこしたり、深い感動をあたえる、といったようなすべてのことを、ハイドンほどうまくできる人はだれもいません。》
ベートーヴェン 1770-1827 1792年ボンでハイドンに会い、のちウィーンで作曲を学んだ。
フンメル 1778-1837 ハンガリーの作曲家。1804年エステルハージ宮廷の楽長。

若きハイドンの幸運

変声期を迎えたハイドンはシュテファン寺院を追い出されたが、知人シュパングラー家に一時居候させてもらったあと、18歳ごろウィーン中心部のミハエラーハウスに移った。《その屋根裏部屋に彼は数年住み、そこで貴重な出会いを得ることが出来た。

1階にはエステルハージ侯爵未亡人が住んでおり、彼女は後のハイドンの楽長任命に何かしら関与していたに違いない。宮廷詩人として最も知られていたメスタージオが3階にいた。そこにはメスタージオの友人であるマルチネス一家が住んでいた。

メスタージオはそこの長女で最も才能豊かなマリアンナの教育に責任があった。彼女の音楽教育のため、かねてから階上から聞こえてくる即興演奏に気を留めていたハイドンを雇い、ハイドンは報酬として3度の食事を3年間提供されていた。
メスタージオを通してハイドンは、著名なオペラ作曲家で声楽教師であった二コラ・ポルポラに会うことが出来た。彼はすでに70歳近かったが当時ウィーンに滞在していたのである。

ハイドンはポルポラの伴奏者として雇われかつかれの従僕の役目を務めた。ハイドンは後にグリージンガーに語っている。「ポルポラからは声楽、作曲そしてイタリア語について大いに得ることがあった」。また自伝的手紙にも書いている、「その時まで私は熱心に作曲に励みましたがそれほど良い結果ではありませんでした。偉大なポルポラから、初めて真の作曲の基礎を学ぶことが出来たのです」。》  (Larsen New Grove Haydnより)

*使用CD

交響曲第31番  オワゾリール 4806900
弦楽四重奏曲「冗談」  Decca 433691
クラヴィーアソナタ第34番  Ph Great Pianists of the 20th Century Brendel I
トランペット協奏曲 CBS MK39310
歌劇「オルランド」  DHM BVCD 34035
交響曲第98番 Decca 475551
アンダンテ主題と変奏曲 Decca UCCD 9170
おもちゃの交響曲  EMI 62516

ハイドン 年表  Franz Joseph Haydn

1732年 ハイドン生 (3月31日)
1738年 ハインブルクのフランクのもとに引き取られる
1740年 ウィーンのシュテファン寺院児童合唱団に入る
1749年 シュテファン寺院を去り、シュパングラー家に寄宿
1750年 ミハエラーハウスに転居
1751年 メスタージオの推薦でマリアンネ・マルティネスにクラヴィアを教え始める
1753年頃 ポルポラの従僕・弟子となる
1755年夏 フュールンベルク男爵家の音楽家としてヴァインツィアールに赴任
1756年 慈悲の友会修士の首席ヴァイオリン奏者
1759年 モルツィン伯爵の楽長としてボヘミアのルカヴェックに赴任
1760年 マリア・アンナ・ケラーと結婚
1761年 エスターハージ侯爵の副楽長となり、アイゼンシュタットに赴任
1762年 アントン・エスターハージ侯爵没、弟ニコラウス継爵
1766年 楽長ヴェルナー死、ハイドンが楽長に昇進。エスターハーザ離宮完成
1773年 マリア・テレジア女帝、エスターハーザを訪問
1781年 ロシア四重奏曲作品33
1785年 モーツァルト、ハイドンに弦楽四重奏曲6曲献呈
1786年 パリ交響曲6曲の作曲依頼
1787年 ナポリ王フェルディナンド、ハイドンを宮廷楽長に招聘するも拒絶される
1788年 ドーニ伯爵の依頼による交響曲第90-92番
1790年 ニコラウス・エスターハージ侯爵没、アントン候継位。楽団解散
ハイドン、名誉楽長となり、ウィーンに転居。12月ウィーン出発
1791年 ロンドン着。ザロモン演奏会。オックスフォード大学名誉博士
1792年 ロンドン発、ボンで22歳のベートーヴェンに会う。ウィーン着
1794年 ロンドンへ出発。第2次ザロモン演奏会。
アントン・エスターハージ候没。ニコラウス2世候継位
1795年 ロンドン・オペラコンサート。ロンドンから帰国
1796年 ニコラウス2世候より楽団再建の依頼あり
1797年 ウィーン音楽芸術家協会会員
1798年 「天地創造」非公開初演
1800年 妻マリア・アンナ死
1801年 「四季」非公開初演
1804年 エスターハージ家の楽長を辞す。ウィーン市名誉市民
1808年 「天地創造」演奏会出席、公衆から最後の歓呼
1809年 77歳で死去 (5月31日)

以上   

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