(序)
●現代音楽の私の最初の印象。
私が現代音楽を最初聞いた時、前衛音楽に対して「「リズムが複雑」、「歌えるようなメロディが無い」、「ハーモニーが不協和音」、「難解でとっつき難い」「訳が分からない」これが音楽か?」「感動がない」と拒否感を感じていました。
ですから敢えて聴く気も起らないし、聴く機会も遠ざけていたので、無知を通していた。
そんな状況を変えたのは、Arvo Part「Fratres」を聴いた時からでした。20世紀にも素晴らしい作曲家がいるのだと気づいたのでした。
それから、毛嫌いせず分け隔てなく特に第2次大戦後多くの作曲家の音楽を聴くようになりました。
*私が現代音楽を聴く楽しみ
・様式にとらわれない自由な音楽 何が出てくるか分からない。
・緊張感 突然のクラスター 垂直方向の音楽
・明瞭な音、音響的音楽
・今までにない楽器奏法 楽器の新しい音表現
・パーカッションの多用
・響き 従来と異なる新い響きの表現
など、その魅力は数多くあります。
今回は前置とちがい、20世紀音楽の中で敢えて前衛でない作曲家の音楽を対比的に採り上げました。
●クロード・ドビュッシー(1862~1918)(フランス) 没56歳
ドビュッシーは20世紀で最も影響力のある作曲家の一人としてしばし見なされており、西洋音楽からジャズ、ミニマル・ミュージック、ポップスに至るまで幅広く多様多種な音楽の部類に影響を与えている。
*「牧神午後への前奏曲」(1892 - 1894) 8:52
" 夏の昼下がり、好色な牧神が昼寝のまどろみの中で官能的な夢想に耽る"という内容で、牧神
の象徴である「パンの笛」をイメージする楽器としてフルートが重要な役割を担っている。
指揮 ピエール・ブーレーズ クリーヴランド・オーケストラ ドイツグラモフォン
●モーリス・ラヴェル(1875~1937)(フランス) 没62歳
オーケストレーションの天才、管弦楽の魔術師と言われる卓越した管弦楽法とスイスの時計職人(ストラヴィンスキー談)と評価される精緻な書法が特徴。
作曲家は創作に際して個人と国民意識、つまり民族性の両方を意識する必要がある」
アメリカの作曲家達に「ヨーロッパの模倣ではなく、民族主義スタイルの音楽としてのジャズとブルースを意識した作品を作るべきだ」とも述べている。
*弦楽四重奏曲 ヘ長調(1902-1903) 28:
「音楽の神々の名とわが名にかけて、あなたの四重奏曲を一音符たりともいじってはいけません。」
しかしながらラヴェルは、出版にあたって作品全体を改訂して、より構築感が高まるようにした。
弦楽四重奏曲は難しいジャンルであり、作曲家が成熟期を迎えるまでにこれを手懸けることは、まず滅多にないほどである。だが、当時まだ27歳のラヴェルはその作曲に挑んで、この楽種の傑作を示したのであった。
パラカニ・クワルレット PRAGA Dijitals ハルモニアムンディ
●ジャン・シベリウス(1865~1957)(フィンランド) 没91歳
シベリウスは英語圏並びに北欧の国々において交響曲作曲家と音楽界に多大な影響を与えた。イギリスの交響的作品が作曲されていた1930年代にはシベリウスの音楽は大流行しており、その裏にはトーマス・ビーチャムやジョン・バルビローリらのような指揮者による演奏会と録音の両面からの下支えがあった。
*大洋の女神 11:15
*付随音楽「テンペスト」組曲(1925) 23:11
シェイクスピアの戯曲『テンペスト』への付随音楽。『タピオラ』と共に彼の最後の主要作品.
この作品は驚くべき想像力と発想力の豊かさを示しているとされており、シベリウスの指折りの傑作とみなす者もいる。
第1幕~第3幕
レイフ・セーゲルスタム 指揮 ヘルシンキフィルハーモニック オーケストラ
ONDINE 23:11
●ジャコモ・プッチーニー(1858~1924)(イタリア) 没66歳
ご存知イタリアのオペラ作曲家。音楽史上の位置付けは、ヴェルディ亡き後、19世紀末から20世紀初頭のイタリア・オペラにおいて最高の作曲家というものである。
大衆迎合的なお涙頂戴をプッチーニ作品の性格と評価される。
*オペラ「蝶々夫人」より「ある晴れた日に」 4:33
長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く
ミレッラ:フレーニー(SP) カラヤン指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
●セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)(ロシア帝国) 没70歳
”私は作曲する際に、独創的であろうとか、ロマンティックであろうとか、民族的であろうとか、その他そういったことについて意識的な努力をしたことはありません。私はただ、自分の中で聴こえている音楽をできるだけ自然に紙の上に書きつけるだけです。…私が自らの創作において心がけているのは、作曲している時に自分の心の中にあるものを簡潔に、そして直截に語るということなのです。”
*交響的舞曲(1940) 36:52
1940年にニューヨークのロングアイランドで作曲された。作曲者自身が「何が起こったのか自分でもわからないが、おそらくこれが私の最後の煌きになるだろう」と述べたように、この作品がラフマニノフの白鳥の歌となった。
大植英次 指揮 ミネソタ・オーケストラ REFFERENCE RECORD
●バルトーク・ベーラ(1881~1945)(ハンガリー王国) 没64歳
作曲家、ピアニスト、民俗音楽研究家。
学問分野としての民俗音楽学の祖の1人として、東ヨーロッパの民俗音楽を収集・分析。
彼の楽曲は民俗音楽の旋律やリズムだけではなく構造面も分析したうえで、なおかつソナタ形式など西洋の音楽技法の発展系を同時に取り入れて成立していることや、過去の音楽に目を向けて新しい音楽を生み出そうとした点など、音楽史的には新古典主義の流れの1人と位置付けられる。
*ヴァイオリン協奏曲 第2番(1937~1938) 35:56
生前はバルトークの唯一のヴァイオリン協奏曲と思われていたが、死後《ヴァイオリン協奏曲 第1番》が再発見され、第2番と番号付けされるようになった。
ヴィクトリア・ムローヴァ(Violin)
エッサ・ペッカ・サロネン 指揮 ロスアンジェルス・フィルハーモニック DECCA
(出典 Wikipediaより要約)
<出生&没年>
1858年 ジャコモ・プッチーニー (イタリア)→→1924年(没56歳)
1862年 クロード・ドビュッシー(フランス)→1918年(没62歳)
1865年 ジャン・シベリウス(フィンランド)→→→→→→1957年(没91歳)
1873年 セルゲイ・ラフマニノフ(ロシア帝国)→→1943年(没70歳)
1875年 モーリス・ラヴェル(フランス)→→→1937年(没62歳)
1881年 バルトーク・ベラ(ハンガリー帝国)→→→1945年(没64歳)
リゲティ・ジェルジュ (1923-2006)
ハンガリーの現代音楽の作曲家。クラシック音楽で実験的な作品を多く残したほか、スタンリー・キューブリック監督作「2001年宇宙の旅」や「シャイニング」などに音楽が使用されたことでも知られる。
1956年12月にウィーンへ亡命し、オーストリアの市民権を取得。ウィーン音楽院に学び、その後、ケルンでカールハインツ・シュトックハウゼンらの現代音楽の手法に触れ、前衛的な手法を身に付けていった。その代表的なものには、トーン・クラスターなどがある。
(紹介曲) (全てYouTube画像による紹介)
● 6つのバガデル(1953) (演奏:CARUON)
● ポエム・サンフォニック(1962) 100台のメトロノームのための
● マカーベルの秘密(1975) (演奏:ハンニガン& GSO)
● ヴァイオリン協奏曲(1985) (演奏:コパチンスカヤ)
● 「2001年宇宙の旅」より アトモスフェール(1961) 他
● ロンターノ (1967) Boulez / New York Philharmonic
● String Quartet No. 2(1968) The Halley Quartet:
● 「ルーマニア協奏曲」(1951)
デイヴィッド・ロバートソン (指揮)ウイーン放送交響楽団
● 「Hungarian Rock」for Harpsichord(1978)
Elisabeth Chojnacka(Cmb.)
● Lux Aeterna(永遠の光)(1966)
● シャイニング The Shining (1980)
●Concert Romanesc Mariss Jansons Bavarian RSO
ストラヴィンスキー バレエ「春の祭典」 作曲の経緯
1910年、ストラヴィンスキーは、ペテルブルクで『火の鳥』の仕上げを行っていた際に見た幻影(“輪になって座った長老たちが死ぬまで踊る若い娘を見守る異教の儀式”)から新しいバレエを着想し、美術家ニコライ・レーリヒに協力を求めた。
1911年9月末にローザンヌのストラヴィンスキーを訪問したディアギレフは、そこで聞いた作曲途中の『ペトルーシュカ』を気に入り、これを発展させてバレエにすることにしたため、『春の祭典』は一時棚上げとなった。
1911年6月に『ペトルーシュカ』が上演された後、『春の祭典』の創作が本格的に開始された。ロシアに帰国していたストラヴィンスキーはレーリヒを訪ねて具体的な筋書きを決定した。同じ頃に「春のきざし」から始められた作曲は同年冬、スイスのクレーランスで集中的に作曲が進められた結果、1912年1月にはオーケストレーションを除き曲が完成した。ストラヴィンスキーはこの年の春に演目として上演されることを希望したが、ディアギレフはこれを翌年に延期するとともに、大規模な管弦楽のための作品にするよう要望した。その後、モントルーでオーケストレーションが進められ、1913年に完成した。
1912年春頃、ディアギレフはそれまでのバレエ・リュスの振付を担当していたミハイル・フォーキンにかわり、天才ダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーをメインの振付師にする決意を固めた。すでにニジンスキーは『牧神の午後』の振付を担当していたが、作品が公開されていない段階であり、その能力は未知数であった。
ニジンスキーのダンサーとしての才能は賞賛しながらも、振付師としての能力には不安を抱いていたストラヴィンスキーは、実はニジンスキーが音楽に関して全く知識を持ち合わせていないことに愕然とし、リズム、小節、音符の長さといった、ごく初歩的な音楽の基礎を教えることから始め[9]、毎回音楽と振付を同調させるのに苦労した。
不安になったディアギレフはダルクローズの弟子ミリアム・ランベルク(マリー・ランベール)を振付助手として雇い入れ、ダルクローズのリトミックを『春の祭典』の振付に活かそうとしたが、ダンサーは疲労困憊しており、彼女のレッスンに参加するものはほとんどいなかった[10]。
ニジンスキーは1913年の公演でドビュッシーの『遊戯』と『春の祭典』の2作品の振付を担当したが、ストラヴィンスキーによれば、それはニジンスキーにとって「能力以上の重荷」であった。振付及び指導の経験がほとんど無く、自分の意図を伝えることが不得手なニジンスキーはしょっちゅう癇癪を起こし、稽古は120回にも及んだ。しかも、主役である生贄の乙女に予定されていたニジンスキーの妹ブロニスラヴァ・ニジンスカが妊娠してしまったため、急遽マリヤ・ピルツ(Maria Piltz)が代役となった[12]。ランベルクによれば、ピルツに対し、ニジンスキー自らが踊って見せた生贄の乙女の見本は実にすばらしく、それに比べて初演でのピルツの踊りは、ニジンスキーの「みすぼらしいコピー」に過ぎなかったという。
このような苦難の結果できあがった舞台は、レーリヒによる地味な衣装のダンサーの一群が、ニジンスキーの振付によって舞台を走り回り、内股で腰を曲げ、首をかしげたまま回ったり飛び上がるという、従来のバレエとは全く違うものであった。(ウィキペディア 抜粋)
バレエ「春の祭典」 その革新性についての対談
お話:
許 光俊(音楽評論家、慶應義塾大学教授)
守山実花(バレエ評論家)
《まずはイントロ《春の祭典》について》
1913年、パリのシャンゼリゼ劇場において初演された《春の祭典》は、そのストラヴィンスキーの最高傑作の一つであり、ディアギレフが仕掛けた「事件」の中でも最大級のものであると現代では評価されています。
けれども本作冒頭に登場するそれは、チープな舞台背景に加えて、振り付けも余りに前衛的でした。まるでイヌイットの呪いというかもののけ姫が出てきそうな面妖さなのです。
加えて、ひっきりなしに拍子の変わる複雑なリズム。およそ人の想像するバレエの美からはかけ離れた動き。ダンサーたちが内輪に回した両足でうなだれて立ち、けいれんするように細かく全身を震わせる様子は、本編にも見られるとおり、初日の上演途中からのブーイングや野次、さらには暴動にまで発展する恐れが出てきて、警官が出動するほどでした。
その反面、ブラボーの交錯も巻き起こしたが、これはプロデューサーのディアギレフが招き入れたサクラも、多数含まれていたようです。
こんな前衛的で過激な内容にもかかわらず、ストラヴィンスキーの才能を見いだしたディアギレフの眼力には敬服します。
《春の祭典》の革新性
許:彼は20代に《火の鳥》で一躍有名になったのですが、これは確かにすばらしい名曲です。オーケストラが実に色彩豊かだし、ドラマティックな振幅も広いし、濃厚な森の匂いがする。神秘性もある。天才が、自分にはここまでできるという自覚もないままに、すごいものを創ってしまったという感じがします。その初々しさも魅力です。それに比べると、《春の祭典》はわずか3年後の作曲なのですけれど、自信満々というか、風格があるというか、こういうことをやってやろうというしたたかな戦略がわかる曲です。原色の絵の具をぶちまけたようなシーンであっても、精密に計算されています。2013年は、ちょうど作曲・初演から100年目にあたります。
《春の祭典》では、たとえばチャイコフスキーや《火の鳥》みたいな、男性主人公、女性主人公というものが存在しませんね。もっと集団的です。そもそも、登場人物にイワンとかペトルーシュカといった名前がつけられていませんね。
守山:集団が生贄の乙女を選び、乙女は踊り続け死ぬ、異教徒の祭儀です。《火の鳥》や《ペトルーシュカ》では、鳥なり人形なりをダンサーが表現する点において、バレエの伝統的なテーマとの関係が完全に断ち切れたわけではありませんでした。振付の面でもそうです。
《春の祭典》はそこからぐっと大きく前に進んだ感じがします。初演の振付はニジンスキーに任されますが、彼の振りはダンサーにとっても観客にとっても、あまりに型破りなものでした。
許:《春の祭典》という日本語だと、何だか明るい春のお祭りが連想されてしまうのですが、実際にはこれは古代人の残酷な儀式なのですね。古代においては、近代のような個々の人間という考えが確立されていませんから、登場人物には名前もない。《春の祭典》の本当の主人公は、大地というか、生命というか、個々の人間を超えたものとも感じられます。宇宙を動かす無目的なエネルギーとも。
バレエの伝統的な動きとは、あくまで優雅な範囲にとどまりながら、喜怒哀楽を表現しているのですよね? 《春の祭典》の、そうした常識を越えた踊りや音楽は、のちのさまざまなダンスというか身体表現、たとえば暗黒舞踏のようなものまで導き出すような、一種の芽生えのようなものと考えてもよいのでしょうか?
守山:ニジンスキーの版では、ダンサーは首を曲げ、猫背気味の姿勢をとり、足は内股です。足を踏み鳴らす動きも多い。伝統的なバレエの基本姿勢とはまるで異なります。天上方向、つまり理想化された世界を目指す19世紀のバレエと、《春の祭典》の内側へ、下方へと向かう意識は正反対です。バレエの様式美を破壊する動きが、「宇宙を動かす無目的なエネルギー」を湧き上がらせています。未来のダンス、身体表現を予告するものだったと言えます。 この版では、犠牲となる乙女は、生贄として選ばれたあと、約8分間はただ立ったままです。その後、急に飛び上がって約7分間で130回のジャンプを続けます。着地するたびに足で床を踏みしめ、大地と一つになっていくようにも見える。絶望や死への畏怖だけでなく、神、大地のエネルギーと一体になることへの恍惚までもを表現したのではないかと思えます。
許:それは確かに100年前としては常識を越えていたでしょうね。「東京・春・音楽祭」では、戦後のバレエ界を代表する重要人物のひとりと思われるベジャールの振付が踊られるのですけれど、その特徴、魅力は何でしょう?
守山:無数の男女の体の内から湧き上がっていく衝動、熱が肉体を突き破り爆発する様として、音楽を視覚的に表現しています。音楽が持つ宇宙的エネルギーを、原初的な人間の欲望や獣性と重ねたのです。春、欲望が目覚め、燃え立ち、新たな生命が生まれる祭典としたわけです。男女の生贄が選ばれて、肉体を重ねるのですが、ベジャールは発情期の鹿、交尾する鹿を描いた映画にインスピレーションを得ています。鹿の動きがストラヴィンスキーのリズムにピッタリだというのです。最後にはすべてのダンサーがカップルとなり、向かいあい、あのリズムにはじかれるように身体をぶつけ続けます。腰でリズムが刻まれます。衣装はシンプルなボディタイツ、装置もありません。「古代の異教の人々」というような枠もない。舞台にいるのはただの男と女です。
許:なるほど、それはずいぶん刺激的ですね。もともと舞台設定や筋書きよりも、ストラヴィンスキーの音楽が持つ根源的な力や特徴に霊感を得た振付と言ってよいのでしょうね。
守山:肉体そのものの力、躍動感、官能性を前面に押し出して、渦を巻きながら増幅していくエネルギーを視覚化しています。
抜粋
【春の祭典】
振り付け シカの交尾を観て発想
サンサーンスは3分で退場。
初演指揮 ピエール・モントウ
オーケストラ
最後まで演奏
わたしが「バレエ・リュス」にきちんと関心をもつきっかけとなったのは、1998年にセゾン美術館と滋賀県立近代美術館で開催された「ディアギレフのバレエ・リュス展」だったかな。それ以前からも名前はもちろん知っていたし(ただし昔は「バレエ・リュス」ではなく「ロシア・バレエ団」と呼んでいたと思う)その歴史を紹介する本もいくつか目を通してはいたものの、ちゃんと「こりゃ面白い」と思うようになったのはこの展覧会に行ってから、だと思う。
ニジンスキーが振付をしたオリジナル版『春の祭典』は、かつては“幻の”作品だったけどのちに復元が試みられ、1992年にはパリ・オペラ座による来日公演も行われていたので、ディアギレフ展をやっていた頃はすでに“幻”でもなんでもなかった。けれど、わたし自身はその公演は観ていないしVHSビデオやレーザーディスクも手に入らないしで、個人的にはやっぱりずっと“幻”のままだった。その<ニジンスキー版>を、今になってやっと観ることができたのだ。上記ディアギレフ展から数えて15年後だ。ようやく、という言葉を使っても差し支えはあるまい。
今回手に入れた盤は収録が2008年6月。その翌年にはディスクが発売されていたようだ。そんなことにはまーったく気づかないまま、つい最近になって通販サイトで見つけ、慌てて手に入れたという次第。ま、この作品の初演は1913年なので、文字通り「ここで遭ったが百年目」。ビデオソフトにも出会えるタイミングというものがあるのかなどとも思ったり。
『火の鳥』と『春の祭典』のふたつが収録され、他にバレエ・リュスをざっと紹介する短編映像と、『春の祭典』を復元したミリセント・ホドソン/ケネス・アーチャー夫妻のインタビュー映像が附いている。後者には練習風景もたっぷり含まれていて、何を語っているのかはさっぱりわからないけど眺めているだけでも面白い。これ、日本語字幕盤が出ないかなあ。
上の写真、ブルーレイディスクの下になっているのがホドソンの復元した『春の祭典』についての本。このブログでは映画『シャネル&ストラヴィンスキー』の感想を書いた際にも紹介してます(→こちら)。
映画『シャネル〜』では『春の祭典』は冒頭に登場し、劇場中が大混乱したという伝説を再現している(あの“騒ぎ方”は必ずしも事実ではなかったという検証もあるようだけど)。とうぜんダンスの方も少し映るんだが、やっぱり断片じゃよくわからない。今回はじめて全編を通して観て、その異様さに改めて驚いた。いや、100年前のパリのお客さんが騒ぎ立てるのも無理ないわ、こりゃ。
収録がマリインスキー劇場での公演というのは興味深い。というのも、ワツラフ・ニジンスキーはこの名門バレエ団の出身だからだ。
マリインスキーはダンサー養成機関として帝室舞踊学校を持っていて、ニジンスキーは1907年にここを卒業。すでに在学中から卓越した才能を見せていた(学科は苦手で社交的な性格でもなかったから学校では孤立していたそうだ)が、プロのダンサーとなるやたちまち頭角をあらわし、まもなくマリインスキーの若きスター・ダンサーとなった。
一方、ディアギレフは1909年、パリでロシアのバレエを紹介する最初の興行を打つ(『セゾン・リュス』)。このとき集められたダンサーはすべてマリインスキーからの「借り物」で、要はオフの期間のアルバイトみたいなものと言っていいかもしれない。ディアギレフはパリ公演にあたってロシア皇帝の援助を受けたかったのだが、敵対する勢力からの横やりが入ったので一切を私財で賄わなくてはならなくなった。マリインスキーのダンサーは「国家公務員」ともいうべき立場なので、団員の貸し出しはいわばお情けでもあったのだろう。しかし、ニジンスキーはたちまちパリの観客から大喝采を浴び、ディアギレフにとってなくてはならない存在となった(愛人でもあったし)。
結局、マリインスキー劇場は1911年2月にニジンスキーを「解雇」するのだが、裏でそれを画策したのはディアギレフだという説もある。もしもニジンスキーがそのままロシアに留まっていたら、その後の世界のバレエの歴史は大きく変わっていたかもしれない。ともあれ、1911年を最後にかれは二度と祖国の土を踏むことはなかった。
マリインスキーの側からみれば『春の祭典』は、(直接の理由はどうあれ)かつてクビにしたスター・ダンサーのいわくつきの作品、ということになる。まあ、この100年のあいだに政治体制もふくめ世の中がまったく変わってしまったから、もう因縁めいたものはなにもないとは思うけれど。
もうひとつ、ホドソン/アーチャー夫妻がこの公演の監修を行っているのにも驚いた。ジャケットに名前が記されているのはいいとして、まさか練習までみっちり付き合っていたとは思いもしなかったからだ。ミリセント・ホドソンは1979年から8年をかけてこの作品の復元に取り組んでいたが、ケネス・アーチャーは彼女とは別に、舞台美術を担当したニコライ・レーリヒの研究者として『春の祭典』の美術を調査していた。やがてふたりは出会い、意気投合し、結婚。まさに『春の祭典』が生んだカップルであり、『春の祭典』復元はふたりにとって我が子のようなものだろう。
つまりこのディスクに収録されているステージは、現在望みうる<もっとも由緒正しい『春の祭典』>と言っていい。
えーと、前置きがずいぶん長くなった。いや、この作品に限ってはこういう「前置き」を知ってから観る方が楽しいと言えそうだけど、そんなことを何も知らずとも、初めて観た人はやっぱりびっくりするんじゃなかという気がする。
「なんなの、これ?」という声があがるかもしれない。いわゆる<クラシック・バレエ>の雰囲気は、ここにはほとんどない。民族舞踊のようでそうでもなく、奇妙なポーズばっかりやっているかと思えばいきなり痙攣したかのように全身を震わせたりする。まったくわけがわからない。上にも書いたけど、100年前のパリの観客が騒ぎ立てるのもわかる気がする。
のちにダンスの歴史を変えたとも言われたほどの革新的な作品でもあったから、このバレエについてはいろんなことが言われてきた。いわく<原始的><古代信仰の儀式><異教><凶暴>…総じて「洗練」だとか「優雅」だとか「上品」だとかとは対極にあり、野蛮で攻撃的、不可解で粗野な作品だというふうに解説されてきたように思う。
じっさいに復元作品を観て、それらの評はあながち間違いではないだろうな、とは思う。しかし、想像していたほど奇天烈なバレエでもないとも思った(もちろん、いま現在の眼を通してみれば、という但し書きがつくが)。
奇妙に見えるのはまずなによりも衣装と化粧、それとクラシック・バレエのイディオムを無視した動作やポーズ、このふたつだろう。フェイス・ペインティングを大胆に施したメイクは異形の風貌であり、異世界の神々のようでもある。身に纏うコスチュームもオリエンタル趣味というにはあまりに異教的な意匠だ。いまならエスニック・ファッションの一部として気軽に消費されうるテイストだろうが、当時の眼にはそれはそれはおぞましい暗黒文明の一部と捉えられていたのかもしれない。
19世紀後半にはいわゆる「ジャポニズム」が流行しはじめ、西欧とはまったく異なる文脈の文化を興味本位ながらも受け入れつつあった当時のパリ市民だが、その消費のされかたは彼ら好みに上品にアレンジされたものだった。そんな時代に、この舞台はまるで純度の高い麻薬をガツンと投与するようなものだったんじゃなかろうか。
いま「麻薬」と書いたけれども、ニジンスキーが提示した『春の祭典』の世界観は、それまでの西欧的価値観を激しく陵辱するような、ことさら神経に障るような、そういう風なものだったと思う。単にロシア風というのではない、もっと東方の中央アジア風でもない。それは架空の「古代」であり架空の「原始」であり、ひょっとして架空の「原始ヨーロッパ」、「ギリシャ以前、ケルト人が跋扈していた古代ヨーロッパ」かもしれない。
いずれにしろ<春を迎えるにあたって大地に処女の生贄を捧げる>という神話的な主題が、20世紀初頭のパリのスノッブ連中にとって大いにカンに障っただろうことは想像に難くない。ニジンスキーはわざと観客を挑発してやろうとは考えていなかったのかもしれないけれど、創作の動機に「自分のことを珍獣かなにかのように見つめるパリの目線」に対抗したいという意識があったとしても不自然ではないはずだ。『春の祭典』は美術家のニコライ・レーリヒの着想をもとに、作曲者のイーゴリ・ストラヴィンスキーと振付のワツラフ・ニジンスキーが協同してシナリオを作ったそうだが、わたしはこの舞台から「パリっ子のイメージする<辺境の地としてのロシア>」をことさらにカリカチュアライズしたような、悪意のようなものを感じたのだ。
反逆のエネルギーにあふれ、生贄となる処女の死を通して生を祝福するこの作品は、生を求めようとして数百万もの優れた人々を死なせた二十世紀をまさしく象徴する。この音楽の作曲者ストラヴィンスキーがはじめこの曲につけようとしたタイトルは<犠牲(ヴィクティム)>であった。(『春の祭典 第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生』(新版)モードリス・エクスタインズ著/金利光訳、みすず書房、2009年、p.xiii)
処女の生贄によってしか祝福されない生、それは植民地主義によって発展してきた西欧諸国を暗喩するものだったかもしれない。だからこそこの作品は、初演時に大騒ぎとなり、スキャンダルを生んだのではないか。
ま、<政治的な意図>だとか<隠されたメッセージ>だとかいうのは、深読みしようとすれば何だって言える。上に書いたことだってこじつけに過ぎないのであって、当時不評だったのは単純に観客が期待していたような審美的なバレエじゃないものを見せられたから、という理由だけでじゅうぶんだろう。なのでわたしの勝手な妄想はここまでとするが、ともあれ、ニジンスキーが振り付けた『春の祭典』はとても複雑な構造で、時に舞台のあちこちで各自が異なる動きをしているから、隅々まで把握するには何度も見返す必要がある(こんなややこしい作品をよくぞ復元したものだ)。これからこのディスクは何度も観ることになるだろう。
ブルーレイの映像はさすがに色鮮やかで美しいんだけど、一点だけ、カメラが動きすぎるのだけが大きな不満。カットが細かく切り替わったり、真上からのアングルが入ったりで非常に忙しい。ただでさえ複雑なダンスなんだから、逆にカメラは動かない方が絶対にいいのになあ。マルチアングルで無編集の「観客席モード」とか収録してくれたら少々高くてもわたしは買うぞ。
原始主義時代[編集]
ストラヴィンスキーはデビュー当初は原始主義を標榜していないが、有名な作品を残し始めた頃から原始主義の傾向が見られる。主な作品として、3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)が挙げられる。複調、変拍子、リズム主題の援用などが特徴である。『結婚』を最後にこの傾向は終息する。
新古典主義時代[編集]
バレエ音楽『プルチネルラ』以降はストラヴィンスキーの新古典主義の時代とよばれる。この時期はバロック音楽や古典派のような簡素な作風に傾倒した。和声の響きは初期に比べてかなり簡明になった。1939年から1940年に行われた講義の内容を基にした著作『音楽の詩学』がこの時代の音楽観をよく表している。その一方で、新古典主義時代ながら『詩篇交響曲』ではセリー的操作を用いていることが後の研究で明らかにされた。ストラヴィンスキーが他の楽派の音楽語法も常に見張っていたことが良くわかる。
セリー主義(十二音技法)時代[編集]
第二次世界大戦後は、それまで敵対関係であったシェーンベルクらの十二音技法を取り入れ、またヴェーベルンの音楽を「音楽における真正なるもの」などと賞賛するようになった。これには同じくアメリカに亡命していたクシェネクの教科書からの影響もある。ストラヴィンスキー自身は、「私のセリーの音程は調性によって導かれており、ある意味、調性的に作曲している」と語っている。各楽器をソロイスティックに用いる傾向が一段と強まり、室内楽的な響きが多くのセクションで優先されている。
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