本日の曲目
交響曲第1番
交響曲第6番 「朝」
交響曲第22番「哲学者」(第1、第4楽章)
交響曲第30番「アレルヤ」
交響曲第101番「時計」
ヴァイオリン協奏曲第1番(第1楽章)
ホルン協奏曲第1番(第1楽章)
ハイドンの就職
ハイドンは1759年(27歳)の頃、ボヘミアのモルツィン伯爵家の楽長として、ボヘミア西部にあるドルニ・ルカヴィツェの伯爵の邸宅に赴任した。音楽好きの伯爵家には小さい楽団がありハイドンの役職は、カペルマイスター。2年ほどしてモルツィン家が財政難となり、楽団を解散せざるを得なくなった。次いで、かねてからハイドンの才能に注目していたエスターハージ侯爵に雇われることになり、1761年5月副楽長として契約した。(採用契約書参照)
1 交響曲第1番ニ長調 (1759年か1762年)
必ずしも最初の交響曲ではないらしい。3楽章のみでメヌエットを欠く。冒頭のどこまでも上昇する旋律が印象的。
第1楽章 プレスト 4:53 第2楽章 アンダンテ 6:23 第3楽章 プレスト 2:02
(演奏)クリストファー・ホグウッド指揮 アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック(OL 1990年)
2 交響曲第6番ニ長調 「朝」 (1761年)
エスターハージ家副楽長就任の年に作曲された交響曲3部作「朝」、「昼」、「晩」の一つ。おそらくエスターハージ侯自身の指示により作曲されたものといわれているが、より充実した楽団を前にしてハイドンが意欲的に書いた傑作。ハイドンの交響曲でオリジナルの標題が付いているのはこの3曲のみ。合奏協奏曲の形をとっており、ソロは管楽器のほか、第2楽章にヴァイオリン、チェロ、第3楽章にはヴィオラとコントラバスのソロも聞こえる。
第1楽章 アダージョーアレグロ 6:06 第2楽章 アダージョーアンダンテ 7:23
第3楽章 メヌエット4:17 第4楽章 アレグロ 4:29
(演奏)ニコラウス・アーノンクール指揮コンチェントス・ムジクス・ウィーン (Tel 1989年)
3 ヴァイオリン協奏曲ハ長調 Hob XII.a:1 (1760年代前半)
エスターハージ家の楽団のコンサートマスター、ルイジ・トマッシーニのために書かれたもの。彼は1757年パウル・アントン侯に連れられて、イタリアから従僕としてアイゼンシュタットにきていたが、ハイドンが彼の異常な楽才を見抜き、ヴァイオリン奏者として推挙。終生エステルハージ家のコンサートマスターをつとめ、楽長ハイドンとよきコンビをかたちづくった。「自分の弦楽四重奏曲の第1ヴァイオリンをトマッシーニほどにうまく弾けるものはいない」(ハイドン)。
第1楽章 アレグロ・モデラート9:14
(演奏)トーマス・ツェートマイヤー フランツ・リスト室内楽団 (Brill 1983年)
4 ホルン協奏曲ニ長調 Hob VII.d: 3 (1762年)
ハイドンは4曲のホルン協奏曲を書いたと推定されるが、うち2曲は消失、本作以外のニ長調は真作かどうか確立されていない。楽団の第1ホルン奏者ヨハン・クノブラウヒのために書かれたと言われている(モーツァルトのホルン協奏曲で知られるヨゼフ・ロイトゲープが短期間エステルハージに所属した時に、彼のために書かれたという説もあり)。
第1楽章 アレグロ 5:36
(演奏) バリー・タックウェル(ホルン) ペーター・マーク指揮ロンドン交響楽団 (Dec 1966年)
5 交響曲第22番変ホ長調 「哲学者」 (1764年)
通常のオーボエの代わりにイングリッシュ・ホルン2本を使い独特の音色を持つ。教会ソナタ。
第1楽章 アダージョ 7:13 第4楽章 プレスト 2:59
(演奏)サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団 (EMI 1994年)
6 交響曲第30番ハ長調 「アレルヤ」 (1765年)
復活祭ミサのアレルヤとして知られた旋律を第1楽章のメインテーマに使った。第2楽章にフルートソロ、第3楽章メヌエットは二つのトリオを持つ。
第1楽章 アレグロ 3:48 第2楽章 アンダンテ 4:17 第3楽章 メヌエット 4:19
(演奏) アンタル・ドラティ指揮フィルハーモニア・フンガリカ (Dec 1971年)
7 交響曲第101番ニ長調「時計」 (1793/4年)
第2回ロンドン旅行のためにウィーンで2-4楽章、ロンドンに着いて第1楽章を作曲。初演は1794年3月3日。第2楽章の時計の振り子のような規則正しい伴奏リズムにより「時計」と呼ばれる。クラリネット2本含む管フル編成、
第1楽章 アダージョ-プレスト 7:50 第2楽章 アンダンテ 6:52
第3楽章 メヌエット 7:14 第4楽章 ヴィヴァーチェ 4:36
(演奏) サー・コリン・デイヴィス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 (Ph 1979年)
ご参考
ソナタ形式
交響曲やピアノ・ソナタの第1楽章などに使われる楽曲の形式。
(序奏)II:提示部〔第一主題・第二主題〕:II II: I展開部I I再現部〔第一主題・第二主題〕終結部:II
メヌエット(ないしスケルツォ)の形式
II:メヌエット前半:II II:メヌエット後半:II II:トリオ前:II II:トリオ後:II Iメヌエット前I Iメヌエット後I
ハイドンの結婚
ウィーンで、フリーランス時代の生徒のなかに、ケラーというかつら師の二人の娘がいて、若きハイドンはこのうち妹のテレーゼに対して、密かな愛情を抱いていたのだが、気持ちが通じなかったのか、彼女は尼僧院に入ってしまった。ハイドンは落胆したことだろう。
その後モルツィン家の楽長になって収入の道も安定していると考えたケラー家の父親は、31歳の売れ残りの姉娘マリア・アンナ・アロイジアをハイドンの嫁にしようと考えたのである。
「ケラー一家が、ハイドンに対してどういう圧力をかけたのかは知らない。だが不幸にして、彼らは成功した。
この作曲家は、おそらく生涯の伴侶として選びうるもっとも不適当な相手を妻としたのであった。概してハイドンが、人間の性情について鋭い判断力をもっており、また他人との交渉に際しては練達と賢明さを発揮した多くの証拠から考えると、この極度の盲目と消極は全く理解しがたい。・・・・ハイドンは結婚することの必要を感じていたのである。
そして、ほんとうに必要だった人が近づきがたいところへ行ってしまった今となっては、結婚の相手自体は、彼にとって大して重要なこととは思われなかったのであった。
マリア・アンナ・アロイジアは、彼より三つ年上で、美しくもなく、愉快な性質でもなく、また音楽に興味をもっていなかったが、彼は1760年11月26日に結婚式を上げた。これは、破滅的な誤謬であった。おそらく彼の生涯で犯した唯一の重大な過ちであったに違いない。
ハイドンは結婚に対して、快適で平和な生活をもたらし、大好きだった子供を授かることなどの期待を寄せていた。こうした希望は、ひとつもかなえられなかった。
アンナ・マリアは、喧嘩好きで、嫉妬深く、偏屈な女であり、よきハウスキーパーではなかったばかりか、とくに彼女が浪費家であった点がハイドンに我慢ならなかった。」(ガイリンガ-)
エスターハージ家の人達
パウル・アントン・エスターハージ(1711-1762)
ライデンで学ぶ。1750-52ナポリ大使。ヴァイオリン、フルート、リュートを嗜む。膨大な楽譜を収集整理。1761年にハイドンを副楽長として雇入れ。
ニコラウス・エスターハージ(1714-1790)
アントンの弟。エスターハーザ宮殿建設。バリトンといういまはすたれた楽器を弾く。
エステルハージ侯 採用契約書 1761年5月1日付
- 楽長ヴェルナーは依然として楽長職に留まる。ハイドンは聖歌隊に関わる限りヴェルナーに服従する。その他、演奏やオーケストラに関することはハイドンが責任を持つ。
- エステルハージ家の副楽長としてハイドンはそれにふさわしい行動をとること。特に賓客の前で演奏するときには、白の靴下、白のリンネル、かつらを着け、楽団の全員にきちんとした服装をさせること。
- 楽団員の指導はハイドンの責任である。従ってハイドンは模範的な行動をとると共に、殿下は楽士たちがいかなる争いをも起こすことを望まれないから、部下を感化し平和を保つようにすること。
- ハイドンは殿下の望む曲を作曲する義務がある。それらの作品を第三者に供与してはならない。殿下の許可なく第三者のために作曲してはならない。
- ハイドンは殿下の昼食の時には次の間に控え、殿下が楽団の演奏を望まれるかどうかを伺うこと。望まれた場合は直ちに楽団員にその旨を伝え、遅刻、欠勤などがないよう管理すること。
- 楽士たちの間に争いが起きたときはハイドンがこれを調停する。
- すべての楽器を注意深く管理すること。
- 歌手たちの訓練を怠らないこと。自身の演奏技術も磨くこと。
- 本契約を守らせるため、写しを副楽長及びその部下に渡される。
- 勤務の細則をよく遵守すること。
- ハイドンの年俸は四百フローリンで四回分割払いとする。
- ハイドンが従僕たちと同じ食事を取ることができる。その食事を取らない場合、一日当り半グルデンの食事手当が支給される。
- ハイドンの契約は1761年5月1日から3年とし、満了時に退職の希望があるときは6カ月前に届け出ること。
- ハイドンがまじめに勤める限り地位は保証され、将来楽長への昇進もあり得るが、そうでない場合、殿下はハイドンをいつでも解雇できる。
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